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「お前が帰ってきて良かったよ」
精密検査、問診、検査、問診、聴取、問診、検査、問診。それらにうんざりとして病室を抜け出したカイは、ぼんやりとベンチに座って風に吹かれていた。転落防止のための、背の高いフェンスが強めの風に煽られてキシキシと音を立てている。
病室に戻るように促すでも無くカイの横に腰掛けた相手に、ちらりとカイは目を向けた。「隠者の里」にあった図書館の司書――アカツキに良く似ている。
けれども、相手は司書では無い。
カイの研究パートナーのナツキだ。
顔立ちも言葉遣いもアカツキに良く似ているが、左手の薬指に光っているプラチナの指輪が何よりの差異だ。
「まさかAIが、あんな風に作動するなんてね」
「初期設定が緻密過ぎた。その他の制約も」
「それから人間の集団意識を舐めてたね。まさか誰も規定時間になってもログアウトして来ないんだから――焦ったよ」
二人が手がけていたのは、抑うつ患者向けの治療用VRプログラムだった。それぞれが精神的に負った精神的な傷を、仮想空間の中で恣意的に消去することで、現実における患者の精神的な諸症状を改善させようとするのがプログラムの作成の目的だった。
医師やカウンセラー、各分野のプロフェッショナルの協力の下に作り上げられたのが、あの「隠者の里」である。
人間の意識がログインすると、人工知能が自動的に、それぞれにとって一番快適な「隠者の里」を作り上げる。
自分たちが抑うつ患者であるということを認識させないようにしたのは、「治療をしなければならない」というプレッシャーから患者たちを解放し、治療目的だということを意識して却って辛い記憶を呼び覚ますような事態を避けるためだった。
その為の設定が、企業の保養所の試験モニターである。
「外部からのアクセスを全部、使用者にとっての脅威だと判断するとはね。参ったよ」
苦笑気味にナツキが呟くのに、カイは肩を竦めた。揺りかごのような、至れり尽くせりの完璧な世界。確かに、あの世界を生きている者たちにとって外部からの刺激は強すぎた。
AIは、まるで赤ん坊を守る母親の如く、外部からのアクセスを悉く遮断して、ログインした使用者たちを仮想空間に引き留め続けた。
AIに設定した第一の目的は「人間の精神を可能な限り安寧に保つこと」。AIは暴走した訳でも何でもなく、ただ脆弱な人間の精神を守るためにその機能を最大限に発揮しただけだった。
――どちらかと言うと今回のことは、カイたちが人間の精神の強さを過信していたからこそ起こった事故と言える。
「あのおみくじ、お前?」
「そう。他のメッセージは全部、届く前から消去されちゃってね。あれだけは何とか通ったんだよ。すぐに書き換えられちゃったけど」
「そうだね。あれでかなり、私の脳に認知的不協和が生まれただろうから。他の人にも広がったらヤバいってAIの判断だったんだろうね」
「AIの作動範囲を環境にだけ限定しておいて良かったよ」
「まぁ――初期設定ごとイジられてたら、そもそも、あのメッセージを見たこと自体が無かったことにされるところだったけど」
「治療じゃなくて洗脳になるところだった。危ない危ない」
軽い声音で呟きながら、溜息を吐き出してナツキが言う。
「本当に――良かったよ。お前が思い出して」
真剣な声音に対して、肩を竦める。
ふざけ半分に設定していた緊急脱出用のコードを使うことになるとは思いもしなかった。そもそも、カイまでもが作成者という自分の立場を忘れて、あの世界にのめり込むだなんて思いもしなかった。
「――改良しないと駄目だな。特に、初期設定とログアウトの方法。それから外部アクセスに対するAIの管理権限も見直さないと」
顎を手に乗せながら独り言のようにカイが呟くと、ナツキがほっとしたように溜息を吐いた。
その様子にカイは怪訝な顔をする。
「なに?」
「いや、もう共同研究やめるって言われたらどうしようと思ったからさ」
「やめる? なんで?」
「だって、こんな目に合ったし」
「でも、戻って来たし。そもそも、こんな中途半端な形で研究放り出すような奴に見えるわけ? 喧嘩売ってる?」
「売ってない、売ってない」
良かったと笑って言うナツキの言葉に、カイは目を細める。プラチナの指輪が眩しい。
ねぇ、覚えてる?
確かにAIの言う通り、全て忘れてしまえば良かったのだろう。あそこは確かに精神にとっては安寧の地だった。
守られた安全な理想郷。
母の腕に抱かれたような揺りかご。
けれど、全てを忘れてしまったのなら、もうそれは――カイでは無い。
現実がもたらす小さな胸の痛みも、キシキシと揺れるフェンスの音も、それらを手離さないと決めて生きているからカイはカイなのだ。
――横で笑うナツキに何も言わないと決めていることも、含めて。
「カイさん、病室に戻って下さい!」
屋上の入り口から看護師が叱責を寄越すのに、肩を竦めるようにして立ち上がる。
「お前が戻ってくるまでに、色々と修正しておくよ」
弾んだ声で言って、ナツキがカイの肩を叩く。
その体温も、あの中では決して得られることの無かったもので、カイは黙ったまま目を細めた。
END
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