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ねぇ、覚えてる?
何気なく引いたおみくじには、それだけが書かれていた。
「えっ」
ぎょっとして声を上げる。
たった、それだけの短いセンテンスに胸を刺されたようにヒヤリとさせられた。
思わず辺りを見回してみる。
鬱蒼と木が茂った神社の境内。
無人の社は、定期的に人の手が入れられているが基本的には雨ざらしで、あちこちが傷んで色褪せている。欠けた石畳の道に、苔のびっしりと生えた石灯籠。賽銭箱の脇に、「一枚百円」と墨文字で書かれた木箱が置いてある。
それがおみくじの入った箱だ。
ポケットを探ったら、たまたま百円玉が一枚見つかって、なんとはなしに手を突っ込んでみた結果が――これである。
カイは再び視線をおみくじに視線を落とした。
そこに書かれている問いかけは変わらない。
ねぇ、覚えてる?
――なにを?
そう問い返そうにも相手がいない。
思い至った途端に、それまで何も感じなかった無人の境内が、酷く不気味なものに思えて来て、カイはそそくさと石段に向かう。
斜めになって、あちこちに苔が生えたボロボロの石段。申し訳程度に設置された手摺りに縋るようにしながら、慎重に――出来る限り急いで石段を降りる。
ここは「隠者の里」と呼ばれる田舎町だった。
情報デバイスの発達によって、人間が受け取る情報量は年々増加をしている。あらゆることが迅速に対応することが可能になった一方で、人間の処理機能を越えるオーバーワークについての対策を、どこの企業も真剣に考えるようになった。
少子高齢の流れを受けて、働き手となる若い世代が極端に少なくなっている現在。一度、雇用した社員を磨耗するまで使い切ってから捨てるようなことは、企業の生存戦略の上でも出来なくなって来ていた。
雇った一人の社員に、出来るだけ長く企業に留まって貰い、企業の仕事を覚えてこなして貰いたい。昭和の終わりまで普通の概念だった終身雇用制度が、あちこちの企業で復活して来ている。
ここは、その一環として作られた――とある企業の保養所である。
高齢過疎になった町全体を、企業が買収し丸ごと保養所として作り替えたのだ。
空き家になっていた家はリノベーションし、最新式の家電が取り揃えてある。町の中での移動は基本的に徒歩だが、欲しいものは注文さえしておけば、なんでも取り寄せて貰えるし、昔ながらの商店に行けば無料で日用品は提供して貰える。
至れり尽くせりの待遇だが、それだけ今は企業にとって「人間」という資源が貴重になって来たということの表れなのだろう。
カイは、本運用に入る「隠者の里」の試験モニターとしてここにやって来た。
条件は、「隠者の里」の使用中は携帯端末の類は一切使用しないこと。定められた期間の内は、外部との接触を取らないこと。
企業が提供する福利厚生は、今や熾烈になった人材獲得のための大きな勝負材料になっている。そのために分厚い契約書類に署名をして、携帯端末を差し出してしまったため、カイは外部との接触を久しく取っていない。
最初は不安でそわそわしたり、時間の潰し方が分からなくて苛々したりもしたが、今ではその生活にもすっかりと慣れた。
むしろ、ここから現実社会に帰った時に、情報過多によって精神にダメージを負いそうだな――と思う。
刺激は多すぎても少なすぎても駄目なのだ。
もしかしたら、これは「隠者の里」の利用者への刺激の一つなのだろうか。
そんなことを考えて、カイはそっとポケットの中の薄いペラペラの紙を指先で探る。
カイの他にも、この「隠者の里」の試験モニターとして生活している者はいる。総勢は十名ほどの筈だ。今日はこれから、そのモニターたちが集まって、「隠者の里」を保有している企業への定期報告が行われる予定だった。
昔、町の公民館として機能していた施設に、ぞろぞろと人が集まる。狭い町だが、モニター同士が顔を合わせることは滅多に無いので、なんだか新鮮だ。お互いに顔を合わせて会釈をしていると、「隠者の里」の運営スタッフの一人が、それぞれに飲み物を運んできた。
定期報告といっても、実質は試験モニターたちを一カ所に集める口実のようなものだ。いくらストレス値を下げるために刺激を避けているといっても、生身の人間との交流が無いと却って人は精神を病むという研究結果がどこかで報告されていた筈だ。
意図的なのか、選ばれた試験モニターたちは、どことなく根底が似た雰囲気が漂っている。理知的で物腰穏やかで落ち着いている。会話をしている分にストレスが少ないのはありがたいが、こんなに似た人間ばかり集めて、実験結果に偏りは出ないのだろうか。ふと、そんな疑問を抱きながらカイはポケットに手を突っ込んだ。
「誰か神社に行ったことがある人、いる?」
きょとんとした視線が向けられるのに、カイはおみくじの薄い紙をテーブルに滑らせた。
「ちょっと、今日――なんとなく行って来たんだよね。それで、おみくじを引いてみたら――こんなのが出て来てさ」
あの言葉に、他の人間はどんな反応を示すだろうか。
少し不謹慎な高揚感が胸を満たしている。けれども、返ってきたのは肩透かしの賞賛だった。
「へぇ、大吉だ。良かったじゃないか」
「え?」
その言葉に、カイは慌てておみくじの紙をのぞき込む。
神社の境内で見た時に、確かに書かれていた文字は消え去り、薄い朱色で枠線が描かれて、その中に黒文字で色々な事柄に対する吉凶が書かれている。
「あの石段、ちょっと危なくない? よく上る気になったね」
「神社かぁ。そう言われれば、あったな。そんなもの」
「運動不足だし、行ってみようかな」
各々が感想を言い合う中で、カイは呆然としていた。
どうして、一体?
こんなことが?
確かに、書かれていた筈の文字がそこに無いことにカイの胸はざわついた。
あの、胸を刺されたようにハッとした鋭い言葉が見間違いだったとは絶対に思えない。
しかし――ならば何が起こったのだろう?
誰かがおみくじをすり替えた?
まさか。
ポケットに忍ばせていた薄い紙を、カイに気付かずにすり替えるだなんて、どんなスリの達人でも至難の技だ。それも、こんな衆人環視下で。では、どういうことか。
そんなことを考えている内に、緩やかに話し合いは収束に向かっていた。
テーブルの上に滑らせたおみくじの紙をポケットにしまい込みながら、ふと思い付いた疑問をカイは口にする。
「ねぇ」
「うん?」
試験モニター同士で、比較的によく話す気軽な相手だった。振り返る相手に、カイは思いついた言葉をそのままぶつける。
「ここに来る前、ナルミさんって何してたの?」
相手はその言葉に驚いたように目を開いて、それから苦笑した。
「こらこら。試験モニター同士が相手の素性を詮索するのは、契約事項に違反するじゃないか」
「あ、そうか」
そう言えば、そんな条項もあったような。
「今日の君は変だなぁ。神社で何かに化かされたのかい?」
気を付けると良い、と肩を叩いた相手は、さっさと公民館を後にして行く。カイは呆然と立ち尽くしたまま、それを見送っていた。
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