ここは、隠者の里。

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 覚えているか、と尋ねられると、言外に「忘れていることがある」と責められている気になる。  神社の境内で目に飛び込んできた言葉のインパクトは強かった。  忘れている?  私が?  だとしたら、何を?  おみくじを引いたあの日から、カイの頭の片隅には、そんな疑問が渦巻くようになっていた。  どうにも、スッキリとしない。  宿題を全て終わらせていたと思ったのに、夏休みが終わる前日になって、思いも掛けない課題を発見してしまった時のような。そんな焦燥感と気持ち悪さが渦巻いている。  そんな気分を抱えながら、散歩に出た。  この町の図書館をカイは気に入っている。  商業スペースから離れたところにある、堅牢な灰色の建物は、いかにも知の殿堂といった雰囲気が漂っていて居心地が良い。  それに、受付カウンターにいつもいる――司書のアカツキも、カイが図書館を気に入る要因の一つであることは否定出来なかった。  本に関することだけで無く、幅広い知識を持っている。少し斜めに物事を見るような視点も、さばけた口調も気に入っていた。  左手の薬指の指輪の有無を確認する程度には。  今日も姿を見せたカイに相手が気軽に笑いかけて、返却のために持ち込んだ本をカウンターに並べていると、アカツキが言う。 「今度は何を借りる? 認知科学?」 「いや、脳味噌については、ちょっと食傷気味かな。なにか――古典が読みたい。日本の古典文学を攻めようと思う」 「相変わらず雑食だねぇ」  笑いながらアカツキが棚番号を告げる。それに礼を言ってから、図書館の奥へと進んだ。これだけ広く、今時珍しい紙媒体の本が豊富に揃っているというのに、カイ以外の利用者を殆ど見かけたことが無い。  さて、どれを読もうか。  思いながら立派な書籍の背表紙の文字をなぞっていく。  続古今和歌集。続拾遺和歌集。水鏡。愚管抄。方丈記。発心集。海道記。将門記。源平盛衰記。撰集抄。保元物語。平治物語。沙石集。うたたね。承久記。とはずがたり。十六夜日記。歎異抄。曾我物語。徒然草――。  綺麗に年代ごとに並べられている内に、違和感を覚えた。もう一度、最初から背表紙に書かれている題名を目で追う。  何か、足りない。  変だ。  これだけ整然と、年代順に豊富な本が並べられているが故に、その違和感が鮮烈に目立つ。  何度か棚の前を往復してから、カイは自分の違和感の源に気が付いた。  ――平家物語だ。  あれほど有名な、古典の教科書に必ず載っている軍記物が棚から欠けている。  他の棚に紛れている? いや、まさか。そもそも、そんな物語など存在しなかったかのようにぴたりと並んだ背表紙たちが、それを否定している。本棚には、埃の一つも積もっていない。毎日、掃除と共に蔵書管理が為されている証だろう。つまり、この図書館には平家物語が最初から置かれていなかったということになる。  ――一体なぜ?  どう考えても知名度で劣る平治物語や、沙石集は揃っているというのに。敢えて、あの物語を図書館のラインナップから外す意図が分からない。  眉を顰めながらカイはカウンターに引き返し、司書のアカツキに平家物語の在処を訊ねた。 「平家物語が棚に無かった? おかしいな」  呟きながらアカツキが手元の端末を叩いて、それから声を上げた。 「平家物語は貸出中になってるよ」 「誰に?」  反射的に訊ねてからカイは後悔した。アカツキが先日、過去を不躾に訊ねた時のナルミのように驚いた顔をして、それから窘めるような表情を浮かべたからだ。 「それは個人情報だから教えられないよ。ただ、他にも貸出希望者がいることだけは伝えておくから」 「ありがとう」  力無い声で礼を告げてから、カイは手ぶらのまま図書館を後にした。
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