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「おい、宮田。」
次の日の放課後。あの神田龍勇から呼び止められた。びしっと顔の前に差し出されたのは、1枚のチラシと何かの用紙。
「何これ。」
「ジムの入会申込書。お前、書けよ。」
「は?私別に入りたいなんて、言ってないんだけど。」
「母さんが言ったんだ。素質あるから入れろって。」
ここでもお母さんかよ。本当にマザコンだな、こいつ。
もう怒る気にもならないけど。
あんな美人で可愛くて、とびきり強い女性が近くにいるのだから、私を見なくて当然だもの。その人から、素質があると言われた事も、少し気になる。
「私、素質あるの?」
「母さんの人を見る目に、間違いは無い。」
まさか、告白した時よりも、この男子と話す事が出来るなんて。そのきっかけが、こいつの母親で、憧れの格闘家の目に止まるなんて、誰が予想出来ただろうか。
「前向きに考えておくわ。」
「あぁ、そうしてくれ。ちなみに、今書いてくれたら、母さんか俺のマンツーマンの指導と、手作り美容ドリンクが毎回ついて、月謝が3分の1のキャンペーン付きだ。」
「ペン持ってるなら貸して。すぐ書く。」
美味しい条件を、見す見す逃しはしない。空手道場も、新しい道場主が嫌で、辞めようとしていたので丁度良い。
「でも驚いた。」
申込書に書き込んでいると、神田龍勇我ぽつりと言った。
「え?何が?」
「父さんに殴りかかる人がいるなんて、思わなかったから。見た感じ、ヤクザっぽいし。」
「あ、そ、それは本当にごめん。」
「別にいいだろ。父さんも母さんも、気にしてない。寧ろ、母さんは面白がってたから、父さんが怒る事は無い。」
まさかあんな、いかつい父親だとは、思わなかった。そういえば、顔つきは神田龍勇と似ていたように思う。髪の色も同じだ。あれで瞳の色が緑色ならば、瓜二つの姿だっただろう。その上、ヤクザではなく、近くの塾の講師だった。
人は見かけによらない。あの夫婦はどちらもそうだ。何だか、羨ましい。
「母さんは、よく羨ましがられる。」
ぎくっと肩が震えた。口に出ていた?いや、違う。なら、何故私の気持ちを、こうも見透かしたかのような話をするのか。気にせず、神田龍勇は話し続ける。
「やりたい事で成功してるし、お金はあるし。結婚して家庭もある。でも、それは相応の努力をしたからだ。批判もあったけど、不屈の精神で耐えながら、自分を磨いて、結果周りの奴らを黙らせて来た。」
確かに、そんなにトントン拍子に上手くいく訳が無い。実際、氷室紗知のアンチが、試合中に野次や物を投げつけたり、ネットで誹謗中傷のコメントを書き込んでいた事も知っていた。『こんなのやらせ。』『見た目だけのアイドル格闘家。』『チャンピオンやめろ。』だの、思い出しても腹が立つ。
それでもあの小さな体で、何人もの期待を背負ってリングに立ち、店を経営し繁盛させ、子どもを育てていった。苦行どころではないはず。彼女のように、強い精神力がある人はなかなかいないだろう。
「だから宮田も、頑張ればいい。母さん程かはわからないけど、きっとお前なら、いい格闘家にも…いい女にもなるよ。」
そう言い残して、彼は去って行く。
…はぁ??
「ちょ、ちょっと待て!まだ用紙渡してない!!」
「後で貰う。」
「はぁ!?ざけんな!ここまで書いたんだから、すぐじゃない!!てか、最後のってどう言う意味!?脈あり?脈ありなの!?」
「俺は母さんより、いい女じゃないと無理だから!」
誰もいない廊下で、2人の追いかけっこが始まった。
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