先生のこと

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先生のこと

 初めて先生に会ったのは、俺が高校2年の春休みだった。  午前中に練習を終え、先輩たちと一緒に入学式後に行われる部員勧誘でのパフォーマンスの相談をしている時だった。辛いイメージのある陸上部は毎年部員集めに苦労する。リレーや駅伝に参加するためにも、やはり部員確保は大事だ。他の運動部より目立つことを第一に考えて、今年はコスプレに挑戦する方向で意見がまとまって盛り上がっていた。  教頭に連れられ、若い男が部室に入ってきた。  新しい顧問だと紹介されたその人を見た第一印象は『小柄な人』、そして『童顔』。   陸上経験者だと自己紹介し、前任校では希望していたものの陸部の顧問になれなかったので俺たちを指導するのが楽しみだと、にこにこ話す様子が本当に嬉しそうで、垂れ気味の目が笑うと線のようになって恵比寿様みたいだなあと思った。  先生の指導は熱心だった。先生の専門は長距離だったらしいが、先輩曰く経験がない短距離の練習メニューも的確らしい。短・長距離関係なく能力に合わせて3段階程度に分けた内容で、同じメニューでも個人に合わせて練習量が増減されている。ただ、ギリギリ限界のところで『さ、あと一本行ってみよう』と優しい顔で追い込んでくるので部員から優しい鬼と呼ばれるようになった。  はじめは信頼と親しみやすさと大人への憧れだけだったと思う。いつの間にか、俺のなかで先生が占める割合がどんどん大きくなっていった。  どこにいても目の端で先生を探すようになった。校舎内でもグランドでも、どんなに遠くにいても先生を見分けることができるようになったし、理由を見つけて職員室に行くようになった。  とにかく先生を近くに感じていたかった。主人に尻尾を振る犬のようだったと思う。  インターハイ予選が始まった5月下旬。  競技場に、差し入れを持った女性が先生を訪ねてやってきた。声をかけられた先生はその人をみると破顔した。  嬉しさが溢れる様子に気付いた女子部員が指摘した。 「先生嬉しそう。もしかして彼女さんですか?」 「いや。まあ、うん。恥ずかしいな」  女子は本当に聞き上手だと思う。あれこれ質問攻めにして、二人のなれそめから結婚を前提に付き合っていることまで聞き出してしまった。  照れながら白状する先生も言葉ほど嫌がってなかった。  前の学校で、お互い新任教師として出会ったこと。ライバルのように切磋琢磨し、時には相談相手として支えあったこと。お互い教師として成長し、今では相手を信頼し尊重していること。  先生と彼女を囲んで女子が盛り上がっているのを見て俺はどんな顔をしていたのか。 「悠平ちょっと」  幼なじみの及川一虎が俺の腕をとって予備グランドに引っ張っていった。 「なあ、大丈夫か。先生のこと好きだったんだろ」  幼なじみから指摘されて、呆然としてその場で固まった。でも納得した。そうか、俺は先生が好きなのか。だからショックを受けているのか。  トラはそんな俺を心配している。 「俺先生が好きだったんだな。知らなかった。おかしい? 先生男だよ」  「変じゃない。でも先生は彼女がいた。仕方ない、我慢しろ」 「みんなにバレてる? なんでトラ知ってんの?」 「気づいてるの俺だけだろ、多分。俺が気が付くのは仕方ない、保育園からの付き合いだし。なんでも聞いてやるから。な、我慢しろ」   トラはそう言ってトントンと背中を少し強めに叩いた。込められた慰めと励ましに泣きそうになった。  先生の近くにると、ドキドキと緊張してしまうのはなんでだろう。先生と会話をするのが嬉しいのに、時々顔が熱くなるのはどうしてだろう。  ずっと分からなかった感情に名前がついた。  先生が好き、たぶん初恋。  でもそこで終わり。先生には恋人がいた。自覚したと同時に失恋してしまった。  簡単にあきらめきれないのも仕方がない。だって、そこに先生がいる。割り切れなくても許してほしい。  うまく隠せていたと思う。卒業まで誰にも知られることなく過ごせたと思う。  知っているのは幼なじみだけだ。  次にコウさんに会ったのは、大学の入学式のあとだった。アパートに帰る、途中ふと思い立って店に立ち寄った。お礼を言いたくて。  コウさんの店の前には、大人の背丈くらいのコニファーの鉢植えと、三人掛けくらいのベンチが置いてある。入口の木製のドアは塗りなおしの跡が残っていて、その手作り感がアットホームな雰囲気だ。パンで作ったウェルカムリースに『ベーカリーKOU』と店名が書かれた小さなプレートがぶら下がっている。  店の正面は、上半分が大きなガラス窓で下半分は壁はレンガの壁でになっている。何となく昭和っぽく、レトロと言えなくもない。あとで知ったことだけど、一応平成になってから建てられたらしい。  今日はベンチに高校生たちの姿はない。  ドアを開けるとベルの音が鳴り、店の奥からコウさんが出てきた。派手なバンダナで頭を覆い、白いコックコートに、作業中だったのか腰にエプロンを巻いている。 「いらっしゃいませ…ああ、この間の。お、スーツ。入学式か、おめでとう」 「ありがとうございます。あの、この間のパンありがとうございました。美味しかったです」 「ほんと? 気に入ってもらえてよかったです。どうぞ御贔屓に」  そういって一礼する様子が気さくで人懐っこさを感じる。  パン屋なのに、大きなガラスのショーケースがあることに少し驚いたが、以前はケーキ屋だったと聞いて納得した。客はケーキを買うようにパンを買うのだという。  奥が厨房になっていて、仕切りはガラス張りなのでよく見える。ショーケースの右側にレジがあり、レジ横の壁には写真や子どもが書いたと思われる絵や手紙が壁一面にびっしりと貼ってある。白い服を着た人の絵はコウさんの似顔絵だろうか。 「近くなんで、ちょくちょく買いに来ると思います。外、今日は静かですね」 「はは。あいつらも、一日中いるわけじゃないしね」 「学校帰りにはいつも来るんですか」 「そうだな。そろそろ3年が引退するから、またメンツが変わるけどな。あいつらテリトリーがあるみたいでさ、向かいの肉屋は野球部が集まるんだよ。なんか暗黙の了解? みたいな」 「へえ。でこっちはサッカー部?」 「そうそう。あいつら運動部だし、いつも腹ペコでさ。うちで買ったコッペパンに、肉屋のコロッケ挟んで食うのが定番なんだって。2~3口でペロッと。胃袋底なしだからめっちゃ食うんだ。高校生やばいな」  やばいやばいと言ってケラケラと笑う。彼らと会うのが楽しいんだろうな。  コウさんが笑っているのを見て、一瞬先生に似てると思った。うそだ全然似てない。コウさんは先生みたいに大人じゃないし子どもっぽい、というか子どもだと思う。面倒見の良いところは……似てるかもしれない。  もしかしたらコウさんに惹かれるかもしれない。そんな予感がする。  でも俺は壁に貼られた結婚写真にコウさんが写っていることに気が付いていた。  先生の時と同じだ、始まる前に終わってる。
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