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新生活
大学の入学式を3日後に控え、千葉悠平は一人で上京してきた。
駅を出た彼の目に入ったのは、ロータリーの真ん中で大きく枝を広げる桜の木だった。
若葉が混じる枝から、ピンク色の花びらが風に乗ってハラハラと宙を舞っている。
季節がひと月遅い故郷の桜は、花芽はあるもののつぼみは固く閉じたままだった。
東京駅から約40分の、各駅停車が停まる小さな駅。
住みたい街ランキング一位の吉祥寺に程近い住宅街。駅前商店街を抜けたあたりに、学生や単身者向けのアパートやワンルームマンションが立ち並ぶ一角がある。その中のひとつ、本来は黄色だったと思われる色褪せた外壁のアパートの2階、外階段に接する1番手前の部屋が悠平の新しい住まいだ。
昼前に駅に到着し、駅前の不動産屋で鍵を受け取ると商店街を北に向かった。
コンビニの他にもいろいろ店があり、思ったより充実していた。前回はアパート選びと契約に手いっぱいで周囲を見る余裕なんて全くなかった。
小さな空き地に高校生が数人、蹴鞠のように輪になってサッカーボールを蹴り上げて遊んでいる。自分がひと月前まで彼らと同じ高校生だったなんて、嘘みたいに遠く感じる。
アパートの前でトラックにもたれてタバコを吸っている人がいた。CMで有名な引っ越し屋のロゴが入った作業着を着ていて、まさかと思って声をかけるとやっぱり悠平の荷物を積んだトラックだった。到着予定時間には一時間以上も早い。
「千葉さん? ごめんなさいね。前の現場が予想より早く終わったもんで……一応、携帯に連絡いれたんですけどね。作業初めても?」
「あ、お願いします。すみません電話、気が付かなくて」
急いで部屋の鍵を開け、搬入を始めてもらった。
玄関を入ると、右側に小さな台所と洗濯機置き場があり、反対側にトイレと風呂が並んでいる。南向きの部屋は今どき珍しい6畳の和室で、床には前の住人が置いて行ったグリーンのカーペットが敷いてあり、壁際には何代か前の住人が置いて行ったベッドが置いてある。大家は捨ててもいいと言っていたがありがたく使わせてもらうことにした。
すべての荷物が運び込まれた後も、宅配便の受け取りや諸手続きに右往左往し、気が付くと外はすっかり暗くなっていた。
一人分とはいえ壁際に積まれたダンボール箱には圧迫感を感じる。
ベッドの上で、食べ損なった昼食用のおにぎりを夕飯の代わりに腹にいれ、やっと一息つくことができた。テレビをつけると、見覚えのないアナウンサーが明日の関東地方は晴れだと教えてくれた。
そう、ここは東京なのだ。
布団に横になると、枕の弾力が心地よい。自覚するより体は疲れていたようで、あっという間に意識が遠くなっていった。
うっすら聞こえる元気な女性の声。うっすら目を開けるとつけっぱなしのテレビが目に入り、見覚えのない景色に寝起きの頭が混乱した。
なんでここにテレビがあるんだ? そうか、ここ……。テレビも電気も消さずに寝たのか。あ――ぐっすり寝た。ヤバ、連絡してない。9時……もう仕事してるか。LINEでいいや。『無事つきましたよ』っと。腹減った。何か買いに行かないと。コンビニがあったよな。スーパー探すか? ん―とりあえずこれ先に片付けるか……。
荷物のなかから電気ケトルを探し出して湯を沸かし、インスタントコーヒーを朝メシがわりに流し込むと、次々と段ボールを開けていった。衣類・本・雑貨……黙々と作業を続け、正午前には満足する環境が整った。
冷蔵庫は空っぽだし、金も下ろさないと……とりあえず探検しよ。
財布とスマホだけを持って外に出ると、地図アプリを見ながらまず近くのスーパーを目指す。思ったより遠くて自転車が欲しいと思った。買い物は後回しにして次は大学を目指す。
天気予報の通り空は雲一つない快晴で、かすかに吹く風が首筋に心地よい。
この辺りはマンション以外の高い建物がなく、遠くからも大学の校舎がよく見えるので迷うことなく到着した。
大学の正門は解放されていて、敷地が広く緑も多い。
木々は芽吹き始めているが悠平に判別できるのは桜くらいだ。
気が向くままに敷地内を散策する。学生と思しき数人が談笑していて、ベンチで寝ている人やランニング中の人、子どもとボール遊びをする親子は明らかに学生ではない。なんとも自由な空間で、数日後にはここで学生生活が始まると思うと不思議だった。
大学を後にして商店街をぷらぷら歩いていると、昨日も見かけた高校生たちが今日も輪になってボールを蹴っている。相変わらず楽しそうだ。
きゅるきゅ――肉屋から漂ってくる甘辛い匂いに腹が反応した。
昼時だな。どんな総菜があるのだろう。そう思って店に体を向けた時だ。
「ああ――!」
「わ、危ない!」
数人の大声が聞こえた。と同時に顔の右側に衝撃を受けた。
一瞬目の前が真っ白になって、思わず地面にしゃがみこんだ。
頭がグルグルと揺れている気がする。
「大丈夫ですか⁉︎」
「すみません、お前がヘマするから――」
「いや、お前だろ!」
さっき見かけた高校生たちがサッカーボールを手に大声でもめている。
どうやらあれが飛んできたらしい。
「大丈夫ですか、立てますか? お前らさ、まずは謝れよ」
そう言って男が腕を取ってゆっくり立たせてくれた。
高校生と違って白いコックのような服を着ている。料理人だろうか。悠平より小柄で頭にバンダナを巻いている。広い額に切れ長の目、真っ直ぐでやや太めの眉を心配そうに寄せている。ふっくらした耳たぶにピアスのような黒子を見つけた。福耳なんだなあこの人、そんなことを考えていた。
「本当にすみません」
高校生と一緒になぜかコック服の男が頭を下げる。
どうしてこの人が謝るんだろう? なんだかよくわからないな、俺には関係ないけど。
一人の男子が、ボールを手に泣きそうな顔でこちらを見ている。彼の蹴ったボールが当たってしまったのだろうか。特に痛みもないし、サッカーボールならそう心配ないはずだ。野球ボールじゃなくてよかった。
「いやホントに、大丈夫です。もう痛くないですし」
ふと、注目を集めていることに気が付き、恥ずかしくて早くその場を離れようとしたのに、
「ちょっと、そこ座ってもらえますか」
コックの男が、店の前に置いてあるベンチを指さした。
大丈夫だって言ってるのに。あんたの言うことを聞く必要があるのかと、少しイラッときたが顔には出さずに従った。
「あ―やっぱり、少し腫れてる。おーい、氷持ってきて、早く」
さっき泣きそうな顔をしていた男子が、慌てて店に入り袋に氷を持ってくる。別の男子がエナメルバッグからアイスバッグを取り出し、氷を詰めて俺に差し出した。
「右目のところ、しばらく冷やした方がいい」
渡されたアイスバッグを右目に当てるとピリッときた。腫れて熱をもっていたらしく、氷の冷たさが気持ちよかった。
高校生たちの視線のなかに彼らの緊張を感じたので、安心させたくて陽気に声をかける。
「本当に、もう大丈夫だから。謝らなくていいし。よく見ていなかった俺も悪い」
「俺はコウで、このパン屋が俺の店」
「俺は千葉といいます。昨日この先のアパートに来ました」
「N大学生? 昨日、お―入学おめでとう。あ、ちょっと待ってて」
そう言って店に入っていった。
高校生たちは近くの都立高校のサッカー部員で全員3年生。先週から春季大会が始またらしい。
「負けたら引退なんですよ」
「あ―いよいよ受験勉強か」
「勉強したくねぇな」
「大学生いいな―」
「千葉さん、何か部活やってました?」
「ん? 俺は陸上、長距離やってた」
え―長距離! スゲー! 俺には無理! いちいち叫ぶ高校生は本当に元気だ。
「おいお前らさ、そろそろ帰れよ。いつまでもベンチ占領するなよ」
コウさんに追い立てられ、彼らはぞろぞろと駅に向かって移動し始めた
「コウさんまたね」
「また勝負しよ」
「千葉さん、ホントにすみませんでした!」
静かになったベンチにコウさんが腰かけて煙草を取り出した。
「吸っていい?」
「どうぞ。あ、俺も帰ります」
「そっか。これ持ってって。お詫び。あ、パン嫌い? 好き? そっか、ならよかった。はい」
白いビニール袋を渡された。ずっしり重い。何個入ってるんだこれ。いやそうじゃなくて、
「いや、でも。え、お詫びって。え、変じゃないですか?」
「いや。あれ、俺が蹴ったボールだったんだよね……だからお詫びなの」
「あれ、だって。お前ら謝れよって」
「うん、その通りです。ごめんね」
「ごめんね……」
両手を膝に置き頭を下げるコウさん。つむじが見えた。この人つむじ二つあるんだ、なんて考えていた。つむじが二つある人は頑固でやんちゃでへそ曲がり。
何も言わずにいると、コウさんが顔をあげて目が合った。上目遣いにこちらの様子をうかがう目つきは悪さが見つかったガキみたいだ。あ、ぺろりと舌を出した! 子どもかこの人は。
「くふっ……ははは――」
思わず吹き出した。負けた。ダメだ。笑いが止まらない。腹が痛い、涙も出てきた。湧き上がる痛快感。懐かしい、久しぶりだな。いつ以来だこんなの。
コウさんも顔をくしゃくしゃにして声をあげてケラケラと笑っている。
アパートに戻り、受け取ったパンの袋をテーブルに置く。コンビニで買ったミネラルウォーターを口に含み、ベッドに腰掛け母親にまたLINEを送った。朝のあれは短すぎる。
『やっと荷物が片付いた。今日大学まで歩いてみた。こっちは桜が散り始めていたよ』
高校のグループLINEに大量の通知。今でも誰かが近況報告を入れてくるので、写真だけでもかなりの枚数になっている。つらつらとスクロールし、卒業式にクラスで撮った集合写真で指をとめる。
みんなと一緒に笑顔で納まる自分を見つけた。坊主にみたいに短かった髪は部活引退後伸び続けボサボサだったが、卒業式のために整えた。サラサラと癖がなくやや茶色の髪は女子からは羨ましいと言われたっけ。
集団の中心に、生徒と一緒に大口を開けて笑う、教え子たちよりはるかに幼く見える童顔の担任がいる。
記憶の奥にしまい込んだはずの景色が戻ってきた。
卒業式のあと、先生から入籍したと聞いた俺たちは、みんな興奮して口々に騒ぎ出して最後は大声で万歳三。
『先生、おめでとう! 幸せにね―!』
懐かしいような昨日のような。でも、ひと月前のこと……。
前から、付き合っている人がいるのは知っていたけれど。
聞きたくなかったな。
いずれ、結婚するだろうと思っていたけれど。
やっぱり、聞きたくなかったな。
左胸の少しだけきゅっとした。
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