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「ねぇ、覚えてる? 私たちが初めて出会った時のこと」
夜闇の中、切れかけの街灯の下。彼女は俺の頬に触れ、うっとりと目を細める。こちらを覗き込むようにして小首を傾げると、彼女の艶やかな黒髪が一房、サラリと流れ落ちた。
黒の髪に黒のワンピース、黒のショルダーバッグ。もちろん瞳も真っ黒なビー玉のように丸く大きく、俺だけを真っ直ぐに見つめている。スーツのジャケット越しに背中へ伝わるコンクリートの冷たい感触。鼻と鼻がくっついてしまいそうなほどに顔を近づけて、俺たちは互いに見つめ合っていた。
「……いや、知らん知らん知らん!」
俺は嫌な汗を全身から垂れ流しながら全力で顔を背けた。
覚えてるもなにも、彼女と俺は初対面である。
誰だこいつ。よくよく見たが全然知らん。こんな人気のない路地裏通るんじゃなかった。いつもの退勤路とは違う道で帰ってみよう、だなんて馬鹿なことを考えた自分を恨む。
抑えつけられているせいで、身体はビクともしない。どんだけ馬鹿力なんだ?本当に女か?いやかわいめのゴリラかもしれん。だってこいつ片手しか使ってないぞ。
「あらあら、嘘はいけないわ。前に会った場所もこんな暗い路地裏だったわよね……」
そう言った彼女の目は真剣そのもので戦慄する。怪力な上に狂ってやがる。ヤバすぎる。俺は一体どこでこんな玄人ストーカーを引っ掛けてきてしまったのか。普段は大してモテもしないのに、どうしてこう変な奴には好かれやすいんだ俺は。悲しい。ただただ悲しい。いやちょっと腹も立ってる。
「ちょちょちょちょちょっと待て」
自分の女運のなさを嘆いている間に、気づけば俺は着ていたスーツを脱がされて上半身裸になっていた。ついでに下も、ボクサーパンツ一丁。嘘だろ。俺はこんなところで一体なにをされるんだ!
「知ってる?」
そう言って彼女はショルダーバッグからなにか細い物を取り出した。なんだ? ナイフ? カッター? これだけヤバそうな女だからなんかヤバそうなブツの入った注射器とかかも。なんにせよ碌なものではないだろう。
ああ、神様……に願っても俺は信心深くないから助けてもらえなさそうだ。ああ、警察。助けてくれ。税金なら欠かさず払ってる。
彼女はもうひとつなにか小さなものを取り出した。ついたり消えたり不安定な街灯の明かりの下、くすんだ光を反射したそれは、古ぼけた小さなジャムの瓶のようなもの。
中に入っているのがジャムだったらまだ安心できたのだが、残念ながら、中には赤みを帯びたどす黒い液体が入っていた。
なんだ、それは。
まさかとは思うが、血……?
背中を冷や汗が滑り落ちていく。彼女は「細いなにか」を口に咥え、片手で瓶の蓋を開けた。一瞬だったが、彼女が咥えた「細いなにか」が街灯の明かりの下で露わになる。
それは、ナイフでも、カッターでも、注射器でもなかった。
「……いつも同じ道を行き来してると、たまに違う道を通りたくなる時ってあるでしょう」
「ど……どうして、それを」
俺の馬鹿げた行動理由を言い当てた彼女は、ようやく俺から手を離した。急に解放された俺は、驚きと戸惑いで動けないでいる。
「それはこの世ならざるものに呼ばれている時なのよ」
歌うようにそう語る彼女の、片手には古びた小瓶。そしてもう片手には────筆。
彼女は赤黒い液体にその筆を浸けると、俺の身体に筆先を押し付けた。ひんやりとした筆先の感触に全身が総毛立つ。彼女は困ったように笑いながら俺の耳元で囁いた。
「また呼ばれたのね、ドジな人」
そう言った彼女は素早く手を動かし始める。俺の全身を筆が這い回る。気持ちが悪かったが、動いてはいけないような気がして俺は目を瞑ったまま、じっとそこに立っていた。
「……いい子ね」
そう言って彼女は、艶やかな声で笑った。
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