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彼女は形のいい唇に人差し指を当てると、しぃ、と息だけで沈黙を促した。
もう身体は自由になっていたが、俺はなぜだか逃げ出そうという気にならなかった。女の言う通り、口を押さえて息を潜める。そうしなければならないと思ったのだ。
なにかに強制されている訳ではない。自分の意思で俺はこの女に従っていた。そうしなければ、とても恐ろしい目に遭う。なんの根拠もないはずなのに、俺はそう確信をしていた。
ああ、なんでだ……急に気分が悪くなってきた。胃の中をグルグルとかき混ぜられているみたいだ。
突如湧き上がってきた吐き気と振戦。全身から脂汗が噴き出す。目の前の女に取り押さえられた時も相当恐ろしかったが、それとは比べ物にならない、これは純然たる恐怖。
記憶はないのに身体が恐怖を覚えている。まるで、ずっと昔、同じことがあったように。
びちゃ。
びちゃ。 びちゃ。 びちゃ。
聞き慣れない物音に、俺は耳をそば立てた。なんの音だ?足音のようなリズムでこちらへと向かってくるそれは、俺の知る足音のどれにも当てはまらない。喩えるなら水をヒタヒタに含んだモップを地面に叩きつけているような、そんな、不快な音。
びちゃ。 びちゃ。 びちゃ。 びちゃ。
その音が近づいてくるのと同時に鼻をつく、強烈な生臭さ。これは、魚の臭いだ。それも、腐った魚の臭い。嗚咽しそうになるのを必死に堪える。いつまでこうしていればいいんだ。
目だけを動かして音のする方を見ると、来たはずの道が真っ黒な壁になっていて声を上げそうになる。目を凝らすと余計にゾッとすることに気づいた。これは、壁じゃない。人間だ。それも、とてつもなく大きな。
身の丈は2、3mを有に超えているだろうか。細長い身体を折り曲げ、屈むような体制で歩くその巨大な人間は、俺が着ていたのと同じようなスーツを身に纏っている。俯いた顔は暗くて見えないが、背格好的に恐らく男だろう。ハッキリと分かるのはひとつだけ……そいつの全身がずぶ濡れだということ。
びちゃ。 びちゃ。 びちゃ。 びちゃ。
一定の速度を保ちながら、男は目の前にまで迫ってきていた。クラクラするほどの腐臭。口の中まで逆立つ寒気。不快な水音が耳の奥にまで侵蝕してくる。下を向いたら嘔吐してしまいそうで、必死に顔を上げる。
奴がこんなに近くにいるというのに、黒髪の女は表情ひとつ動かさずに美しく佇んだままだ。口元には微笑みすら称えている。ヤツとは相対的だったが、彼女もまた異様だった。
切れかけの街灯が頭の上で瞬き、瞬間、男の顔が無機質な街灯に照らし出される。
「ッ……?!」
男の顔は人間のそれではなかった。鼻があるはずのところに鼻がなく、口は頬まで裂けているのだはないかと思うほど大きい。そして全ての歯が犬牙のように尖っている。
肌は細かく切り込みが入っているみたいに逆立っていて、その間から粘性の半透明の液体が滲み出ていた。直感的にその液体がこの激臭の元なのだと察する。理解し難いことだが、きっとコイツは身体が腐っているのだ。それでこんな風に全身から腐った汁を垂らしている。
特に気味が悪いのは目だった。白目がほとんどないせいで、目の部分がポッカリと空いた空洞のようにも見える。真っ黒な瞳。魚だ。これは魚の目だ。
よく見れば手足があるはずの所から飛び出ているのも魚のヒレのようなものだった。人間らしき形の物体に、魚のパーツが歪にくっ付いている。
コイツは一体、なんなんだ。
人でも魚でもないソレは、感情のない目をギョロリと動かして、女の肩越しに俺の方を見た。頭の中で警鐘が鳴り響く。ついさっきまではまるで俺のことが見えていなかったように思えたが、今、ヤツは確実に俺の存在を認識しようとしている。
探るようにギョロギョロと目を動かしながら、奴は口元から透明な液体がボタボタと垂らした。見たくないと思うが、恐怖でもう小指一本すら動かない。ゆっくりと近づいてくる奴の顔。涙が出るほどの激臭。真っ黒な目と、俺の視線がかち合う。
「ヒッ……」
堪えきれずに声が漏れる。ギョロリと動く真っ黒な目玉。側で微笑んでいた女が初めて厳しい顔つきになったが、俺はそんなことを気にする余裕はなかった。
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