おいで、おいで。

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 「っあ……!!」  耐え切れない強烈な恐怖に俺は黙っていることが出来なくなってしまった。助けを呼ぼうと叫んだつもりが喉から出たのは悲鳴にもならない声。全身の力が抜けて、逃げ出したいのに立ち上がれない。堪えていた吐き気が込み上げてきて胃が痙攣する。内容物が食道から押し上がってくる。  薄汚い路地のコンクリートが新鮮な吐瀉物に塗れた。  俺を見つけた化け物はギチギチと皮膚を引きちぎりながら大きく口を開けた。暗闇の中でも分かるほどに真っ赤な口内には尖った歯がびっしりと生えている。  ソイツはまるで笑ったかのように口元を歪めた。  食われる。本能的にそう感じた。だけどなにも抵抗することができない。どうして俺がこんな目に。こんな理不尽な死に方をするはずじゃなかったのに。怒りと悲しみとそれを凌駕する恐怖。俺はもうなにも見たくなくてギュッと目を瞑った。  「仕方がないわね……これはあまり使いたくなかったんだけど」  ずっと黙っていた女が、ため息まじりに呟いた。化け物が一瞬、訝しげに女の方へ目玉を動かす。その隙を見逃さなかった彼女は、手に持っていた古びた小瓶を躊躇いなく地面に叩きつけた。  瞬間、小瓶が弾けた地面から黒い風が噴き出す。風は渦を描きながら全て彼女の持つ筆の先に吸い込まれていく。禍々しい光景のはずなのにどこか神聖さを感じるのは、凛と立つ彼女が美しいからだろうか。  風を吸い込んだ筆が見る間に大きくなっていく。長く、太く、彼女の背丈ほどになるまで膨れ上がったそれは、よく見ると、ただの筆ではなかった。  老婆だ。  円柱の柱のような木材の上に、老婆の生首がついている。筆のように見えていたのは老婆の長く白い髪だった。髪の先はあのインクのような液体で赤黒く染まっている。さっきまで身体中を這っていたものが老婆の髪だったと分かって俺の胃はまた痙攣を始めた。  「いらっしゃい。あなたも“不幸”にしてあげる」  えづいている俺のことは気にも留めず、彼女は挑発的に笑った。化け物が耳をつんざくような甲高い叫び声を上げる。食事を邪魔されて怒っているのだろう。まずはお前だ、と言わんばかりにヤツは涎を撒き散らし、長い身体をうねらせて女に襲いかかった。  「ひとつ」  彼女はそう言って、その巨大な筆を振るった。ヤツの顔面が赤黒い液体に塗れる。  「ふたつ」  間髪を入れずに二発目。化け物が悲痛な叫び声を上げる。傷はついていないようだが、ヤツは地面に倒れ込んで、苦しそうに身悶え始めた。ギャアギャアと鳴きながら激臭の煙を上げ、見る間に痩せ細っていく。 「みっつ」  三発目を叩き込まれた化け物は醜い断末魔を上げて、瞬く間に塵となり────消えた。  「あら。二画で十分だったかしら」  振り向いた彼女は、何事もなかったかのように美しく笑った。  こんな状況だというのに俺は不覚にもその笑顔に目を奪われた。しかし正気に戻ったのはその一瞬で、すぐにまた吐き気が込み上げてくる。化け物は消えたが、悪臭はまだしつこく辺りに漂っていた。  第二波に襲われている俺の背を、彼女のしなやかな指が撫でる。  「ちゃんと言うことを聞かないとダメじゃない」  吐くものがなくなって、胃液で喉が焼ける。優しく背中を撫でられて安心したのか、俺の意識は急速に遠のいていった。
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