パンドラの箱

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 アルバン・ヘルツ警部は家を出るとカフェ・エトムントに寄った。新聞を読む為だ。本当は家から近いカフェ・ツェントラルの方が置いてある新聞の数が多いのだが、あそこは荘厳過ぎるし、文士が多くて居心地が悪い。だからカフェ・ツェントラルを少し過ぎたところにあるカフェ・エトムントがお気に入りだった。エトムントにも新聞は沢山置いてあるし、ヘルツのような警察官も歓迎してくれる。ヘルツが警察官だと知ると下心や後ろめたさを露わにする人間は沢山いる。  カフェ・エトムントに入るときまってヘレン通りがよく見える窓際の席に座る。そこからは通りを歩く全てが見える。性格も行動も生活様式も。ウィーンで起こる事件を解く為にはウィーンに住む、又は来る人間たちを知らなければならないと考えるヘルツにとってカフェ・エトムントは格好の勉強場であった。  給仕長(ヘル・オーバー)はクライナーシュヴァルツァーと新聞をそっと置いた。ヘルツは満足げな気分で新聞を取ったが、一面記事でその満足気分は消滅してしまった。 『元リーデンシュタイン侯爵御子息、自宅で死亡。闘病の末の自殺か』 「なんてことだ……」  呻きながら時の流れの虚しさと幸福が約束されなかった哀しさを思った。  警視庁に入ったところでヘルツはちょうど馬車から降りる警視総監と出会し、慌てて姿勢を正した。 「総監、おはようございます」 「おはようヘルツ警部」そう挨拶する警視総監の口調は暗い。ヘルツ警部は今朝エトムントで読んだ新聞を総監の手に見つけて、理由が分かった。 「ヘルツ警部……君は覚えているかね? リーデンシュタイン侯爵殺害事件のことを?」と総監が一緒に警視庁に入りながら聞いた。  ヘルツ警部は目を伏せた。「はい……忘れられる筈がありません。今でも不甲斐なく思います。あんなに酷い事件だったのに殺害犯逮捕を成し遂げることが出来ませんでした」 「それは誰のせいでも無い。ましてや君のせいでは無い。当時君は若くまだ新人だった」  総監はそう言うが、その庇い立てが却って辛かった。 「だが唯一生き長らえたご子息……エマヌエル様まであのようなことになられるとは、まだお若いのに。お悔やみの言葉を送らなければ。……それはそれとあの言葉を覚えているかね?」  ヘルツ警部は目を瞬かせた。「?」 「それこそ忘れてしまったのか? ヘルツ警部。夫人が自らのお命を絶たれた時に手を握っていたノートの切れ端に残されていたあの文章だ」  ヘルツ警部はあっ、と叫んだ。当時、最大の謎はそのだった。その一言の意味が分からなかったからこそ事件は迷宮入りしてしまった。 「「""」」
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