霊能力者

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霊能力者

   ある一人の男がその頃の寒さのためにもうすっかり人気のなくなった公園をただどこに向かうでもなくふらふらと彷徨い歩いていた。男にとってはにとって特別なことではなく、ただ狭いアパートの自室に籠っているよりは幾分か気が晴れるというわけで休日にはいつもそのようにした。 彼はボロボロの黒いジャンパーを着て、灰色にくすんだ運動靴を履き潰して足をひきづるように歩いていたので側からみれば浮浪者に見えたかもしれない。 その日はその月の給料を殆ど使い果たしてしまっていたことで、この先どうしたものかと頭を悩ませていた。 もううんざり、うんざりだと頭の中で何度も繰り返した。無駄なことに金を使うまいと誓いを立てるのはもう何度目だろうか。だが、どんなにかたい誓いもあと数週間経てばきっと忘れてまた散財してしまう。だからこんなふうに今自分を戒めることも無意味なことだ。 金はあればあるだけ使ってしまう。それがこのところの彼の性質だった。 第一、今月の家賃をどうしようか。家賃の引き落としはまだ先だ。今月も支払いが遅れたらあの大家は一体なんというだろうか。考えただけで気が滅入ってくる。 それなら誰かから金を借りようか。しかしそう都合よく自分に金を貸してくれる奴がいるだろうか。それに、借金というのはそもそも気が進まない。自分のことだから金を借りていてもいつの間にかもらった気になって、そのうちに借金のことなんて忘れてしまうだろう。そうして結局どんどんと膨れがってしまうに違いない。でもそれならどうするべきか…。 半年ほど前に妻と別れてから、彼の生活は随分ひどいものになっていた。 彼は五十近くになるまで働き続けていた会社も辞めてしまった。アルバイトをしながら食い繋ぐようになったが、もう若くなかったせいか仕事を覚えることに時間がかかった。それだけならよかったが彼に仕事を教えるのは彼よりずいぶん若い人間達だったこともあり、耐えきれれなくなってすぐ何度も仕事をやめた。近頃はずっとそういうことが続いていた。 また、家賃を滞納することも多かった。アパートの大家はおおらかな人だったが、最近はあまりにも滞納が酷くなってきたので、これ以上滞るなら出ていって欲しいと言われたばかりだった。 ふと目の前にベンチを見つけて腰を下ろす。木製のベンチだったが随分冷えていたので彼は身震いした。周りを見渡してもその広場には誰もいないようだ。 こんなに寒いのだから無理はない。見上げると空は灰色の雲に覆われていて、雨も降り出すのではないかと思われた。空のうす暗さと風の寒さが彼の心の憂鬱そのものだった。  この自分の暗く行き詰まった人生、それを丸ごと変えてしまうようなそんな素晴らしい機会がないものだろうか…。もちろんそんな事は都合の良い妄想にすぎない。だけど、そんなものでもない限りこの先どうしようもないじゃないか。 「あれ、誰かと思ったら神野ちゃんじゃないの」 男は突然名前を呼ばれてハッと顔を上げた。五メートルほど目の先に立っていたのは彼よりもさらに一回り年がいっているであろう老人だった。その老人は彼よりも一層ひどい身なりだったせいで全く浮浪者そのものだった。 「やっぱりそうだ。どうしたんよこんなところで。」 老人はそのままさらに彼の方へ近づいてきた。 「ああ、藤崎の爺さんか。久しぶりだな。あんたこそどうしたんだこんなところで。」 「いやちょっとこの辺に用があってな。それで公園が見えたから立ち寄ったんだよ。ちょっといいかな。」 老人はそういって彼の隣に座り込んだ。二人は知り合いだった。と言っても特段深い仲ではなく、少し前に彼が派遣のアルバイトをしていたときに何度か一緒に仕事をしたという程度だった。藤崎という老人は初対面の頃から妙に馴れ馴れしく接してきたので彼の方でも別に関わり合いになる気はなかったのだが「知り合い」ということになってしまった。 「爺さんは今でもあそこで働いてるのかい?」 「いや、もう働いてないさ。今は別の仕事をしてんのさ。」 「へえ、そりゃどんな仕事だよ。」 「いやあ、簡単には教えられねえな。」 「そりゃどういうわけだよ。」 彼は別にこの老人と長々お喋りするつもりはなかったし、特にこれから何の予定もないにしてもここで時間を浪費するよりはさっさと切り上げてしまいたいと思っていた。だが、彼のいう「仕事」というのが妙に気にならないではなかった。 「だけど、お前がどうしても教えて欲しいっていうなら、教えてやらんこともないんだけどな。」 「だから何なんだよ。そんなに勿体ぶるようなことなのかよ。」 「そりゃあな。なかなか大きな声では言えないような仕事よ。だけど、そうだな、なんだったらお前もうちで働いてみないか。ちょうど今人手が欲しくなってきてるんだよ。」 「おいおい、待ってくれよ。一体なんだってんだよ。どんな仕事かわからなけりゃどうとも言えないよ。」 「そうだな。じゃあ言うよ。俺はな、今こういうことをやってんだよ。」 そう言って老人は名刺を取り出して、彼に渡した。そこには「藤崎霊能事務所」とあり、その下にはその老人の名前も印字されていた。 「藤崎霊能事務所⁉︎一体なんなんだいこれ。」 「見ての通りさ。心霊現象に関することならなんでも取り扱う。除霊だとか、お祓いだとか、そう言ったもんだよ。意外にこういうもんに対する需要ってのが結構あるのさ。ひと月でかなりの件数の依頼があるんだ。だから結構繁盛しとるんだけどね。」  彼はそれを聞いて思わず笑ってしまった。よりにもよって「霊能事務所」だなんて馬鹿げていると思った。 「まあ、なんとなく分かったよ。だけどなんというか突拍子もないな。心霊だなんて。あんたにそんな才能があるなんて知らなかったよ。それで金儲けなんて俺には想像もつかないけどな。」 「おい、なんだって、何か勘違いしてるみたいだな。俺には霊感なんてないぜ。どちらかと言えば幽霊だとか、そういうもんは信じてないしな。」 「信じてない?霊感もないってのか?じゃあどうやってそんな仕事ができるっていうんだよ。除霊だってやってるんだろ?ああそうか、経営してるだけで、除霊はあんたがやってるわけじゃあないってわけか。」 「まあ落ち着けや。説明さしてくれ。俺は今誰も雇ってない。だから実際に除霊をやるのも俺だ。というより正確に言えば除霊風なことをやる。依頼通りにな。それだけだ。それで依頼者は満足して俺に金を払ってくれるのさ。」  彼は全く呆れてしまった。つまり、この老人の言っていることは詐欺をやってるってことじゃないのか。そもそも霊能力なんてはなっから信じてしないような人間が除霊をやるなんて、信頼して金を払っている人間に対する裏切りじゃないのか。 「驚いたって感じだな。まあわかるよ。だけどな、お前は幽霊を信じてるのか?」 「俺は信じちゃいないよ。だけどそれとこれとは話が別だろう。」 「なあ、だが世の中にはそういうもんを本気で信じている奴もいるんだ。そして本気で苦しんで助けを求めてくる奴もいる。これは考えようによっちゃある種の治療なんだよ。医者がやるのと一緒さ。思い込みの強い奴らなんだよ。だからありもしないものを信じちまうし、除霊の真似事ですっかり治っちまうんだ。なあ別に俺は誰かを騙してるってわけじゃないんだ。ただ奴らに求められたことをやって、それで奴らは幸せなのさ。」  そう言われてみると、老人の馬鹿げた話にも、全く理がないわけではない。いつの間にか彼は老人のこの奇妙な商売に少しばかり興味がわいてきていた。 「本当にそれでうまくいってるのか。偽物の除霊なんてやって、それで問題ないのか。」 「俺は今まで文句をつけられたことは殆どないな。中には暫く経ってまた心霊現象を訴えてくる奴もいるけどな。だけど少なくとも一時的には効果があるんだよ。だからまた俺のところへ来る。つまりな。やっぱり本当は幽霊なんていねえんだ。思い込みなんだ。そんでもって、俺のやり方で霊に取り憑かれているとか、そういう思いこみも消えちまう。何の問題もないのさ。それどころか素晴らしい仕事じゃないか。こんなことはどこの病院だってやってないさ。心の病だ。だが医者には治せない。俺はそれを治してやれるんだよ。」  彼は深いため息をついた。心の中の整理がつかずに少し混乱していた。この時もっと冷静になれば彼はこの老人の話が全く荒唐無稽で、こんな与太話を本気にするべきでないと考えたはずだ。いくら屁理屈を並べたところで所詮は詐欺まがいの商売なのだ。つまり、彼の考える道徳に反することだった。それだけでこの話は丁重に断って、それで終わりのはずだった。 「なあ、さっきも言った通り、俺はこの仕事で稼いでる。お前が協力してくれるってんなら、それなりの金を出すさ。」  金、と聞いて彼の錯乱した思考は一気にその方へ引き寄せられた。少しでもまとまった金が入ってくるなら彼は本当に助かるのだ。金のない人間というのはこういう時に弱い。 「ちょっと考えさせてくれ。一体どのくらいになる?」 「金か?そりゃあ期待してくれて構わんさ。今お前が何の仕事をしてるかわからんが、その二、三倍の額は払ってやれるだろう。とにかく今足りないのは金じゃなくて人手なんだよ。この仕事を理解して手伝ってくれる人間が必要なんだよ。」  それが決定打になった。彼はグッと拳を握りしめて考えた。そうだ、この世には他に人を騙して、いや人を傷つけて金を稼いでいる連中だっているんじゃないのか。だがこの仕事はどうか。決して清廉潔白とは言えない。だが少なくとも人を傷つけるようなものじゃない。むしろそれを必要とする人がいる、つまりあるべくして存在するのだ、そう考えた。 彼は老人の方を見て、しっかりと頷いた。 「分かった。やらせてくれ。」 「ありがたい。」  老人は手を差し出して握手を求めたので彼はそれに応じた。老人は歯の抜けた口でにんまりと笑った。 「また連絡するよ。来週からでも働いて欲しい。」  老人は立ち上がると彼に一瞥もくれずに陽気な足取りで公園を後にした。 その場に取り残された彼は暫く呆然としていた。あまりにも急にことが決まってしまったと思った。もう少し時間をかけて考え直すべきだろうか。そんな考えが頭によぎったが、すぐに打ち消した。少なくとも金が手に入るのだ。それにまずい仕事ならすぐにやめてしまえばいいと思った。手には先ほど渡された名刺が握られていた。彼はそれを財布の中にしまうと立ち上がってゆっくりと歩きだした。  
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