月子

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月子

依頼者の家まではタクシーを使って三十分ほどだった。真っ白な家ばかり、それもほとんど同じデザインの家だけがいくつもきれいに整列している住宅街の一角にその家はあった。周りの家も見た目が同じなので表札を確認しながら「雨地」とある家を見つけてチャイムを鳴らした。すぐに母親が応答して、彼を家の中に迎え入れた。 「さあどうぞ、待っていましたよ。」 藤崎の爺さんは神経質なタイプだと言っていたが、彼を迎えた母親は感じもよく、極めて健康的な様子に見えた。リビングまで案内されたが、これが母娘の二人暮らしの家なのかと少し驚いた。かなり広々としている上に並べられた家具も何だか上品な高級感があった。ガラス戸の先には小さいながらも整然とした美しい庭もあった。 「どうぞ、おかけになってください。今、お茶をお出ししますから。」 神野はお構いなく、と言ったが母親はそそくさと台所の方へ向かって行った。少し丁重に扱われすぎたので彼は変な気がした。この母親は自分を信頼している。彼が本物の霊能力者でこの家の問題をなんとかしてくれるものだと純粋に信じているのだ。そのことは、彼の罪悪感を僅かながらに刺激しないでもなかった。 神野と母親はリビングのテーブルを挟んで向かい合った。そして母親は俯いたまま、娘の霊感について、これまでの体験について、彼がもう既にほとんど知っていることを滔々と語り始めた。彼は相槌を挟みながらただ聞いていた。彼女は話している最中ずっと顔を俯いたまま殆ど微動だにしないでいた。神経質なタイプ、と言われていたのが少し分かった気がした。確かに変わっているという印象を与える人だ。それに思い込みが激しいタイプであると言うこともまた正しいと思った。きっとこの人は自分が信じ始めたことは決して自分で疑わないだろう。精神になんらかの問題を抱えている。そう思った。こうやって同じ話を何度もすることで自分の中にある不安や恐怖を抑えようとしているのだ。それに、やはりいい歳をした大人が、霊だとかそんなものを簡単に信じていることも異常なことだとおもった。彼女の中ではそれは自身の経験から何らかの形で裏付けされているであろうことは理解できる。しかし、それもまた一種の妄想に違いない。本当は何の関連もない出来事が頭の中で結びついてしまっているだけなのだ。そうして自分の娘の作り話にずっと振り回されている母親。酷い母親だ、とすら思った。 母親は十分話し終えると長話について謝罪して、彼を二階にある娘の部屋の前まで案内した。扉には「月子の部屋」とあった。 「娘の部屋ですが…どうでしょうか。もう何か感じますでしょうか?」 「そうですね…。まだ何とも言えませんが、少し霊の気配を感じます。部屋の中を見てもよろしいでしょうか?」 彼はドアに手を当てていかにもそれらしい様子を演出しながら言った。 「構いません。もうすぐあの子も帰ってくる頃だと思いますよ。」 全く何の変哲もない子供部屋だった。やや散らかった勉強机に可愛らしいぬいぐるみが何体か置かれたベッド、辞書や参考書、漫画本の類が整理されて並べられている本棚があり、壁には月子という少女が書いたと思われる絵の具で描かれた絵が三枚壁にかけられていた。母親の話からして子供の方でも相当心を病んでいるのではないかと思われたが、部屋を見渡す限りはそれを示唆するような物も置かれていない。 「きっと私はお邪魔ですね。私は下の階にいますから何か分かりましたら声をかけてください。それと部屋を調べるときにものを動かしたら、もとの場所に戻しておいてください。月子は部屋のものを動かされると嫌がりますから。」 母親はそれだけ言って彼をその場に残して降りていってしまった。小学生の娘の部屋に大人の男一人残して平気なものかと思った。部屋を霊視でもして調べて欲しいということなのだろうが、彼にできることは部屋のものを漁って月子という少女について少しでもよく知っておくことくらいだろう。 しかし、女の子の部屋を勝手に捜索してまわるというのは何とも気が引ける。そう思いながらも彼は日記でも見つかれば幸いと本棚の中を探り始めた。参考書や問題集の他にはノートが十数冊並べられているが、どれも勉強に使われているものらしく、役に立つとは思えなかった。勉強机の引き出しの方も探ってみたがやはりそれらしいものは見つからなかった。 ふと顔を上げると壁にかけてあった三枚の絵が目にとまった。絵はそれぞれプールで遊ぶ子供たち、水槽の中の金魚、それに二人の少女が仲良く語り合っている絵だった。どれも一見しておかしなところはない、子供らしい絵だった。だが、最後の絵、この二人の少女は一体誰だろうか。そのうち一人は月子であると考えて良いのかもしれない。とすると、もう一人は月子にしか見えないという少女の霊だろうか。しかし二人とも明るい色の服を着ていて藤崎の爺さんから聞いた特徴とやや違っている。それに絵の中の二人は幸せそうでこれがあの母親を苦しめている原因であると考えるのはどうもしっくりこない気がした。 「きゃ!誰⁉︎」 背後からの声に驚いて神野が振り返ると部屋の入り口にランドセルを背負った十歳ほどの少女が立っていた。月子に違いなかった。狼狽る少女の様子からして母親から何も話を聞いていないのだろうか。 「ああ、驚かせたね。」 神野は少女の前に立って、腰を落とした。 「勝手にお部屋に入ってごめんよ。君のお母さんに言われて来たんだ。月子ちゃんだよね?」 月子は小さく頷いた。やはりまだ戸惑って、少し怯えているように見えた。自分より何倍も歳をとった見知らぬ男が留守のうちに勝手に部屋の中に入っていたのだから無理もないだろう。とは言え一階の母親は帰宅した月子に何も言わずに部屋に向かわせたのか。つくづく何を考えているのわからない人だと思った。 「今日はお祓いをしに来たんだ。お母さんから何も聞いてないかい?」 月子はそれを聞いて思い当たる節があったらしく、ああ、といったふうの反応を示した。 「除霊する人でしょ。」 「そう、そうだよ。月子ちゃんは幽霊が見えるんだろう?」 月子はまた頷いた。 「おじさんも霊が見えるの?」 「そうだよ。幽霊をお祓いすることもできるんだ。だけど何にも怖いことはないんだよ。天国に行ってもらうだけなんだ。それでもう月子ちゃんは幽霊に会わなくても良くなるんだよ。」 月子はそれを聞いてやや不審そうな顔を見せた。 「お母さんがそうしろって言ったんでしょ。じゃあおじさん、幽霊が見えるならこの部屋に誰がいるのかもわかる?」 神野はそう言われて、少しドキッとした。この子は自分を試そうとしていると思った。 「ああ、分かるよ。そうだな、君と同じくらいの歳の女の子だろう?髪は短くて…えーと、黒い服を着てるな。」 「黒いワンピースね。」 そう言って月子は顔を綻ばせた。 「すごい。本当に見えるんだ!幽霊が見える人、なかなかいないんだもん。霊能力者の人にあったことあるけど、本当に見える人ばっかりじゃなかったから。ああでもね、おじさん、別にお祓いはしなくていいんだよ。」 「え、なんだって。それはどういうわけだい?幽霊がお部屋にいたら怖いだろう?」 「そんなことないよ。別に悪い子じゃないもん。二人でお話しするだけ。」 このことは彼にとって全く意外だった。子供の方に除霊を断られるなんてことは考えていなかったのだ。少女は部屋にいついた幽霊とおしゃべりしているとは聞いていたが、全く怖くないものだろうか。しかし、ここでハイそうですかと引き下がるわけにはいかない。結局のところ金を出すのはあの母親なのだ。 「そうかい。それは良かった。でもね、今はそうかもしれないけど幽霊ってのはそのうち月子ちゃんに怖いことをするかもしれないんだ。だから今のうちにお祓いをして、いなくなってもらったほうがいいんだよ。」 月子はこれを聞いて、今度は明らかに不審そうな表情を見せた。 「お祓いなんていらないよ。可哀想じゃん!友達なんだってば!なんでお祓いなんてする必要あるの⁉︎」 全くこれには参ってしまった。だいぶ頑ななようだ。このまま除霊をやって、うまくいくだろうか。この子自身がこの部屋にいる霊と別れたくないという気持ちが強すぎれば除霊した後も霊の幻覚を見るのではないだろうか。神野は月子の前に跪いて半ば懇願するような調子で言った。 「ごめんよ。別に二人を引き離そうと思ってるわけじゃないんだ。ただその女の子の方にはもう天国に行ってもらおうと思うんだよ。それがその子にとっても一番いいんだ。だから…」 月子は彼の話を全く聞いていなかったが、彼はこの時少女の視線が彼の首に下げたペンダントに注がれていることに気づいた。 「おじさん、綺麗なペンダントしてるね。」 月子は自分の胸のあたりをさすって言った。 「これかい?これはね…中に写真が入ってるんだ。」 そう言って彼はペンダントを開いて中を見せてやった。その写真は月子と同じくらいの年齢の少女のものだった。それを見るとまた月子は笑顔になっていった。 「これ、おじさんの子供?可愛い子。」 「うん、そうだよ。」 「へえ、一緒に住んでるの?」 「会えないんだ。今は。」 「どうして?」 「とっても遠くにいるんだよ。」 「ふーん、そうなんだ。」 月子はそれを聞いて、なんだ残念といった顔を見せた。  「だけど、もし会えたら友達になりたいな。」 「ありがとう。陽凪も喜ぶよ。」 「陽凪ちゃんていうのね。」 彼は思い出したようにカバンの中をゴソゴソ漁って中から日本人形を取り出した。それはあの事務所に置かれていた気味の悪い人形たちの中では幾分マシだと思って彼が先程持ち出してきたものだった。 「なあ、月子ちゃん。この部屋にいる霊はきっと月子ちゃんが一人で寂しがってると思ってここを離れられないんだよ。だからこのお人形を月子ちゃんにあげる。このお人形はその子の代わりだからね。月子ちゃんがこのお人形を持っていればその子は安心して旅立てるんだよ。」 月子はまた少し訝しげな表情を見せたが、その人形を気に入ったようで手渡されると笑顔になって人形を抱きしめた。 「かわいい。もらってもいいの⁉︎」 「勿論だよ。その代わりもうすぐその子はいなくなるからね。だけど寂しくないんだ。」 「うん、わかった。わかった。ありがと。」 神野は最後に勝手に部屋に入った非礼を詫びて、部屋を出た。これでひとまずやるべきことは終えたと思った。月子という少女はいい意味であの母親の娘らしい印象を与えない子供だった。素直でいい子だと思った。除霊らしいことはしていないが、あの子の部屋に大量のお札をベタベタ貼り付けたりするよりはいいだろう。それに最後はきっとわかってくれたに違いない。これで少なくともしばらくはあの子が幽霊の話をすることは無くなろうだろうと思った。一階に降りるとあの母親が不安げな表情でどうでした?と訊いてきた。必要な除霊は済ませましたので万事問題ありませんと伝えると、母親はそれを聞いて心底安心したといった表情で彼の手を取って礼を言った。生暖かい手だった。
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