悪霊

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悪霊

月子の一件ののち、彼はどのようにしていたか。彼はそれから一週間ほど、大して罪悪感に苦しめられることもなく、仕事も板について、何度か依頼者の家を訪ねて除霊を行なった。その結果も良好だった。 除霊の後にぴたりと心霊現象がなくなったと喜ぶ者は少なくなかった。そうでなくても、依頼者は彼の仕事に非常に満足していた。依頼者のほとんどはやはり何かしらの強い孤独や不安感を感じている者が多い。そして、無理もないことだが、これは周囲に彼らの話を親身になって聞いてやる人間がいないことが大きな原因に思えた。それがより一層彼らを孤独にしてしまうのだ。だから、彼らの話を否定せずに共感して、大真面目に受け取ってやる存在がいるだけで大きな助けになった。 仕事がうまくいっていることに加えて、藤崎から受け取る金が思った以上のものだったことも彼の気をよくしていた。金は月末にまとめて、ではなく、依頼をこなすごとに藤崎から直接現金で手渡されていた。初めて金を受け取った日、つまりこれは月子との一件が終わってすぐだが、彼は受け取る金額の大きさに驚いて、それが一月分の給料だと勘違いしたくらいだった。仕事を終わらせれば毎回これくらいの金を渡してやれると言われた時も半信半疑だった。これだけの金を払えるということは、それはつまり藤崎は相当な金額で依頼者から仕事を請け負っているということだ。最初、彼はそのことについて思うところがないわけではなかったが、そのうちに金は当然それだけのものを受け取るべきだと思うようになった。彼はいつの間にかこの仕事がすっかり気に入ってしまった。 彼が金を欲する理由は、滞納した家賃よりも、別れた妻の存在が大きかった。 これだけの金が一度に入るなら一年も仕事を続ければかなりの額が入ると思った。そうすれば、きっと妻ともよりを戻して、全部やり直せるだろうと夢想していたのだ。 事が起こったのは、月子の件から一週間ほど後、その日は仕事がなかったので彼は昼頃まで寝ていたのだが、藤崎からの電話で目を覚ました。彼は大した問題じゃないと思うんだが、とおいてから、神野が最初にあたった依頼の少女、月子の様子がおかしくなって、その件で母親が我々の助けを求めているから、お前ちょっといって見てきてくれないか、と言った。様子がおかしくなったとは一体どういうことかと訊いたがあまり詳しいことはよくわからない、だがとにかく様子を確認してほしいとのことだった。 彼はすぐにベッドから起き上がったがまだぼんやりとしていた。あの少女の心配よりも仕事を急に入れられたことに対する不満と苛立ちの方が強かった。そもそも月子の様子が変になったとして、除霊とも言えないあのやりとりと関係のあることなのだろうか。単なる体調不良か何かでいちいち呼びつけられるとしたらたまらないと思った。実は、藤崎は高い報酬を受け取る代わりに除霊を完了してからの二週間を保険期間ということにしていた。つまりこの期間中に霊に関することでなんらかの問題が生じたとすればすぐに駆けつけて金を取らずにお祓いでもなんでもやる、ということだった。このように呼びつけられるのはこの時が初めてだった。 神野は事務所の方へは寄らずに月子の家へ直接向かった。できる限り速やかに終わらせてしまおうと思った。あの母親の心配性がでたのだと思った。雨地家に着いたら、お嬢さんのことは霊とは全く関係ないことだから早く病院に連れて行くなりするべきだと伝えてそれで何も問題ないはずだ。 玄関のチャイムを鳴らすと母親がインターホンにも応答せずにすぐにすぐに扉を開けた。彼女の顔は青ざめていて、明らかに疲れ切っていた。 「入ってください。月子は二階にいますから、すぐに会ってやってください。」 彼女は彼の手を引いてずんずん歩いて二階にある月子の部屋の前まで彼を連れていった。明らかに前とは様子が違っていた。彼の腕をつかんでいる彼女の手はひどく震えていた。 「一体何があったんです?実はまだほとんど何も聞いていないんですよ。」 「月子は昨日学校で倒れたんですよ。体育の時間で、校庭を走っている最中に。 私は学校から電話を受けてすぐに駆けつけました。あの子は学校の保健室のベッドで仰向けになって寝ていました。だけど私が声をかけても返事をしないんです。ただ上の方を向いてぼーっとしているんです。私が体を揺すったり、手を握ったりすると一応少しだけ反応をみせることがあります。だけど、全く口を聞かないんです。家に帰ってきてから今までずっとそうです。それに、食べたり飲んだりもしません。」 「なんですって?そういうことだったら相談するべきは私じゃありません。すぐにでも病院に連れて行くべきでしょう。」 彼は面倒ごとに巻き込まれたくないという保身からではなく全く本心からそのように思った。そもそも学校で子供が倒れてから口がきけなるくなるなんて事があれば、学校の方で勝手に病院に連れて行ったりしないものか。 「いいえ。病院には連れていきません。私にはあの子が悪いものに取り憑かれてしまったとしか思えないんですよ。それにあの除霊が終わってすぐですからね。なんの関係もないはずがありません。とにかくすぐにあの子をみてください。」 彼女はそういうとドアをノックしてから、入るからね、と言ってドアを開けた。 月子はベッドの上で仰向けになって蝋人形のように天井を見つめていた。彼ら が部屋の中に入ってきたにもかかわらず、そちらに一瞥も与えず一切の反応を示さなかった。月子の様子は確かに異様な感じを与えた。月子とは一週間ほど前に少し話した程度に過ぎない。だが、あの時の溌剌さは全く消えてしまって、この変わりようはなんだろうか。彼は月子のベッドの方へ近づいていって上から顔を覗き込んだ。月子は瞬きすらせずにただ天井の一点を見つめている。目が見えているのなら視界に彼を捉えているはずだったが、全く彼の方を見ようともしない。母親の尋常でない様子も納得がいった。不気味だった。一体何があって、こんなふうになるものだろうか。 「やあ。月子ちゃん。おじさんがわかるかな。」 彼はその場にしゃがみ込んで月子に問いかけてみた。やはり反応はないが、呼吸だけは規則正しく行っていたようなので、彼は少しだけホッとして今度は彼女の手を握ってみた。手には生きている人間の温もりがあった。だが握り返したりもせず、表情にも全く変化がなかった。母親が何かに取り憑かれたようだと話していたことも理解できなくはないと思った。何に対しても反応を示さずただ天井を見つめているその様子には何か人ならざるもの意思が介在しているようにも思えた。彼はまた何度か月子に呼びかけてみたがいずれにも反応はない。彼はお手上げというふうに後ろにいる母親の方を振り返った。母親は不安そうに腕を組んで彼と月子の様子をただ見つめていた。彼が何か解決策を見つけてくれることだけを期待してただ待っているのだ。しかし、こうやってこのまま声をかけ続けること以外に彼にできることは何もない。やはり母親を説得して月子を病院に連れていってもらい、もっと現代的で科学的な解決策に委ねる以外にないと思った。 「どうです、月子は?何かわかりますか?一体何が月子に憑いているんですか?」 この期に及んでまだ、そんなことを言う母親には呆れを通り越して、憤りすら感じた。この子はなんらかの病気になってしまったのだ。除霊を頼んでなんとかしようなんて馬鹿げている。そんなことをしているうちにこの子はどうにかなってしまうだろう。 「ま…まだ何もわかりません。これが霊によるものなのかもわからないのです。とにかく、まずは病院に連れて行くことをお勧めします。除霊はそれからでも遅くないのです。」  「そんなことを言ってもらうためにあなたを呼んだんじゃありません。わからなくても構いません。とにかく除霊でもなんでもやって、月子に憑いているものを追っ払ってください。」 「しかし除霊をすると言ってもですね…。」 当の月子が全く反応しない、意識もはっきりしないこの状態で除霊をやって意味があるとは思えない。除霊はあくまで相手の思い込みを更なる思い込みで書き換えるに過ぎず、それ以上のなんの効果も期待できないのだ。しかし、そう考えてみればむしろ月子はあの除霊のせいでおかしくなったのではないだろうか。それは彼の頭の中にあって、それまでずっと無意識の考えないようにしていたことだった。あの除霊まがいの行為が月子になんらかの精神的な問題を生じさせたということはないだろうか。 「あ、そうだ!あの人形はどうなりましたか⁉︎月子ちゃんに日本人形を渡したのですが。」 彼は急に人形のことを思い出して尋ねた。それが何かの手がかりになるかもしれないと思った。部屋の中を見渡しても例の人形は見つからなかった。 「人形ですって?なんのことです?」 「日本人形ですよ。月子ちゃんに渡したんですが、知りませんか。」 母親は首を振った。あの時、月子はあの人形を気に入っていたように見えたが、結局あの人形をどうしたのだろうか。部屋のどこかにしまってあるのか、或いは…。 「あ…あ…ああ」 月子が急に唸り声をあげたので二人の意識は一気にそちらの方へ引き寄せられた。 「月子!」 母親は月子のベッドの方へ走ってくると、神野を押しのけて月子の体を揺すった。 「月子!わかる⁉︎お母さんよ!」 月子はやはり唸り声を出すだけで言葉は発さなかった。 「月子ちゃん!俺の声が聞こえるか!」 月子の顔は段々青ざめ、その眼が赤く充血し、呼吸も荒くなっていった。 「ぐ…ぐ…ああ…か…み……の…」 月子の尋常でない様子を見て二人は青白い顔を見合わせた。 「い、今、私の名前を…」  「あ…あ…か、み、の…が…あ…あ」 月子が彼の名前を呼んでいるらしいことは間違いなかった。そしてその声が彼をまた心底震え上がらせた。月子の喉を通してはいるが、何か別の恐ろしいものがこの子の体の奥底から声を響かせているように思えた。彼が月子の手を取って何度も名前呼びかけるとうわ言は止んで、月子の顔にはまた血色が戻り始めた。そしてまた、落ち着いた呼吸に戻った。 「い、一体、今のはなんです?月子はどうしてしまったんですか?」 母親がそう言った途端、月子はいきなり電気に打たれたように体を一瞬激しく痙攣させて、起き上がった。そうかと思うと、そばに居た神野に急にしがみついて怖い、怖いと言いながらえんえんと泣き出した。彼は全く訳もわからず呆然として、ただ怯え切った月子を抱きしめた。 「怖いのかい?一体何が怖いんだい?」 「そこにいる…何か…ああ、私を殺す気なんだ!」 月子は部屋の隅の方を指し示してそういった。何かにひどく怯えて錯乱してはいるが、この時月子ははっきりと意識が戻って、そして彼に何かを伝えようとしていた。 「一体何がいるんだい?何もいないよ。」 指し示された方向に目をやってからそう言った。月子は何も答えずにただただ泣いていた。そして、母親の方が月子を抱き抱えて落ち着かせるとしばらくして彼女は眠ってしまった。月子をまたベッドの方に寝かせた後、二人は半ば放心状態のまま部屋を出た。リビングに降りても、二人は暫く何も言わなかった。二人とも全く打ちひしがれてしまっていた。たった今、一瞬のうちに起こった出来事にあまりの衝撃を受けて、言葉を繋ぐことができなかった。ただ彼は月子が自分に助けを求めていたということだけはっきり理解していた。 「さっき、最後に月子ちゃんは正気に戻ったように思いました。ひどく怯えはいましたが、何かを伝えようとしていました。」 「正気ですって?あなたにはあれが正気に見えるたんですか?もうあの子は完全におかしくなってしまいましたよ。」 神野はただ俯いて黙っていた。誰が一番責められるべきかははっきりしていると思った。 「あなた達に依頼なんて私が愚かでした。どうしてこんなことになるんですか。あなたが除霊をやってからすぐですよ。」 彼はただ俯いて、申し訳ありませんとだけ言った。それ以上どうすることもできなかった。母親は神野に全く手のつけようがないことがよくわかって、もう何も期待できることがないとようやく理解した。彼女は彼をさらに責め立てたのちに家から追い出してしまった。     彼はそのまま家には帰らなかった。家に帰って一人になれば今日の出来事に頭を支配されてより一層ひどい気分になるだろうと思ったからだ。彼はとにかく月子のことが心配だった。全く原因はわからないが、自分のせいでそうなってしまったのではないかという考えがいつまでも抜けなかった。そして考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなっていた。自分の浅はかな考え、それも人を騙して金儲けを企んだせいで取り返しのつかないことになってしまったと思った。 事務所に立ち寄ると、藤崎がデスクの上で書類を整理している最中だった。藤崎は休日に呼び出してしまったことを詫びて、子供の様子はどうだったかと尋ねた。起こった事をありのまま話すと、藤崎は彼の心中を察したようで、大袈裟に明るい調子で、問題ない、問題ないと言った。 「いや、俺もな、もう一年ほどこの仕事をしているが、一度も問題が起こらなかったわけじゃない。中には除霊のせいで余計体調が悪くなったと言ってくる奴もいたさ。だけど急に体調がおかしくなったからって別に除霊のせいと決まったわけじゃない。そんなもん気のせいだってこともあるしな。とにかく、深刻に考え過ぎないことさ。」 「気のせいなんてもんじゃないさあれは。本当に何かに取り憑かれしまったみたいな感じだったよ。」 「まあそういうこともあるだろうさ。だけど子供ってのは良くも悪くも柔軟な生き物だよ。いつまでもそういうことが続くわけじゃない。」 「それならいいさ。だけど、俺はあれをみた時に、もしかしたら俺はとんでもないことをやったんじゃないかって。それに、俺は今まで霊なんて信じてこなかったさ、だけどもし、万が一にでもそういうことがあるなら、俺がやったことはまずいことだったんだろうって思うんだよ。」 「何?お前もあの奥さんに影響されて変になっちまったんじゃないか。まあ、ショックだったんだろう。無理もない。今日はもう休めばいい。それに必要なら明日だって休めばいいさ。」 神野は内心もう仕事をやめようとすら考えていた。またあんなことが起こると考えたら、恐ろしくて続けられないと思った。いくら安月給で、自尊心を傷付けられることがあっても、他人を壊してしまう仕事よりはずっとマシだった。 「ああ、わかったよ。しばらく休むかもしれない。」 そう言って、彼は事務所を後にした。
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