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電話
神野は月子の一件以来、すっかり自信を無くしてしまった。数日の休暇をもらったのちに藤崎には仕事を辞めようと思っているとも伝えた。藤崎が必死に引き止めたせいで、これに対抗する気力も無くなっていた彼は仕事を辞めることもできなかった。しかし、藤崎に今の精神状態ではまともに仕事をこなせないだろうと判断され、彼は専ら電話番に回された。とにかく元気になるまではそれだけ頼むと言われた。そして藤崎霊能事務所は新たに二人の除霊師役を雇うことになった。二人ともまだ若かったが、どこか無気力で誠実さに欠けている印象を与える男達だった。そして彼だけがあの薄暗い部屋の中で一人電話の前に座り、かかってくる電話に対して一日中応対し続けることになった。あの嫌いだった線香の匂いにもすっかりなれてしまった。彼はこの仕事によっていかに多くの仕事がこの事務所にやってきているのか初めて認識した。新たに二人を雇ったとしてもスケジュールの都合上いくつか依頼を断らなければならないほどだった。依頼を受けるたびに月子のことが気になった。一体あの子はどうなったのだろうか。ずっとそればかり気がかりなのに何もできない無力さを心底呪った。
彼が電話担当の仕事を与えられてから数日後のことだった。昼頃には事務所には彼一人しかいないせいで少しうとうとしていたのだが、電話のベルで目が覚めた。
「はい、藤崎霊能事務所です。」
電話の相手はしばらく無言だった。霊能事務所なんていう看板を掲げているせいで無言電話やいたずら電話の類は珍しくなかった。何度か声をかけても反応がないままなので電話を切ろうとした。
「あの、私です。」
「はあ、どちら様ですか。」
「私です。月子です。分かりませんか。」
「月子ちゃんか⁉︎大丈夫か⁉︎もう平気なのかい!」
受話器の近くで囁くような声だったが、電話の相手の声は確かに月子のものだと思った。彼はその声を聞いて心底安堵した。だが、事務所に電話をかけてくるとは一体どういうわけだろうか。
「平気じゃないの。部屋から出してもらえないの。」
「部屋から出してもらえない?一体誰にだい?」
これに対して月子は何も返さず、しばらく何も言わなかったが、受話器にあたる月子の息だけははっきりと聞こえた。
「そこに誰かいるのかい?」
「うん。」
「お母さんは?」
「わからない。」
「今はどこにいるんだい?」
月子はまた黙って、どこか苦しげな息だけが聞こえた。そして暫くして、電話は切れてしまった。彼は電話番を放り出して、月子の様子だけでも見に行きたかった。電話をかけて、何かを自分に伝えようとしていたに違いない。そして、必死に助けを求めようとしたのだと思った。
彼は「少し出てきます。」とだけ書き置きをして、事務所を後にした。この時、前に月子に渡した日本人形と同じものを鞄の中に入れた。咄嗟に考えたことだったが、何かの役に立つような気がした。月子が今どんな状態であれ、出来ることなど殆どないと思われたが、それでも彼女に会いたかった。
三度目に訪れた雨地邸は隣に並んだ家々と同じ無機質な真っ白のままで、呆れるほど何も変わらない。だが、彼はこの家庭の全てを壊してしまった。考えていることはどうやって贖罪を果たすかということだけだった。何も具体的なことは何もわからないのに全てを投げ打つ覚悟さえあれば、どうにかなるという無責任な自信だけはあった。
インターホンを鳴らすとすぐには母親が応答した。彼は先ほど月子から電話受けてやってきたこと、どうにか彼女の様子だけでも見せてほしいと懇願した。意外にも母親は何も言わずにすぐに戸を開けて彼を中に通してくれた。明日病院に連れていくんですよ、と彼女は言った。前よりもずっとやつれているように見えた。二人はそのまま月子がいる部屋の前までやってきて、そこで固まった。
「月子ちゃんは今どうですか。彼女は私に電話で何か伝えようとしていたと思います。」
彼は少し声を潜めていった。
「そうですか。もう私はあの子がどうなってしまうのかよく分かりません。あなたが最後に家へいらした後からもずっと凍ったように眠ったままでした。と言っても眼を開いたままですけどね。だけど、ときどき意識が戻ることがあるんですよ。あの時みたいに。だけどその時の月子はまるで別人のように見えました。私の娘ですから、わかるんですよ。違うってね。もう、こんなふうに考えるのはやめにしたはずなんですけど、だけどやっぱり、あの子は何かに取り憑かれたとしか思えないんです。別の誰かがあの子の体を乗っ取ってしまったんですよ。」
彼女の声は震えて、涙を堪えるのに必死というふうだった。
「こんなこと考えるのも、結局まだあの子を病院に連れていくのが怖いだけなのかもしれません。もう取り返しがつかないと言われてしまったら?どうしてもっと早く連れてこかなったと言われてしまったら?私は酷い母親でしょう。」
彼はそう話す彼女の横顔を見ながら、何か覚悟を決めたように、振り絞るように言った。
「私は自分でも、もう何を信じていいのか分からなくなりました。告白させてください。私は霊能力者でもなんでもありません。普通の人間なんです。除霊なんて、本当はできません。だけど、霊能力者のふりをして、依頼を受けました。月子ちゃんがあんなことになったのは私が招いたことだと思っています。本当に、なんとお詫びしたらいいのか分かりません。」
彼女はそれを聞いて、何も言わずに少し笑みすら浮かべて、何度か浅く頷いた。
「私は幽霊なんて信じていませんでした。だけど、段々そのことにも確信が持てなくなりました。そして、今では月子ちゃんは本当に霊を見ていたのではないかとすら思います。そして、私が安易に除霊まがいのことをして霊を怒らせたのです。だから、そのせいで月子ちゃんが霊に取り憑かれてしまったとしても、不思議はありません。」
「そう、そうだったのね。じゃあ、月子は悪霊にやられてしまったの。」
彼女は自分に言い聞かせるようにして、呟いた。
「だけど、話ができるなら、なんとかなるかもしれません。なんとかして月子ちゃんの体から出て行ってもらうんです。偽物の除霊でも、話が通じる相手なら、効果があるかもしれません。霊と会話をして、うまく騙すことで霊を祓うんです。会話で除霊を行うのです。」
「分かりました。あなたは勇気ある告白をしてくれました。私はあなたを信じようと思います。どうせ本当に悪霊なら、医者にはどうしようもありません。それに霊能力者に騙されるのも、もう懲り懲りですから。あなたが除霊をやってください。あなたが頼りです。」
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