子供の部屋

1/1

7人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

子供の部屋

彼は自分がどこか、ある家のリビングの床に倒れていることに気がついた。先程までは意識を失っていて、ここで目を覚ましたということだろうか。首にはまだ強い力で締め付けられた感触が残っていた。体を起こしてみると、どうしてか、よく知る場所だった。そこは、彼が昔、妻と離婚する前に住んでいた一軒家のリビングのように思えた。息を吸い込むとかすかに懐かしい香りもした。酷い頭痛がして、思考もはっきりしなかった。つい先程まで月子の部屋にいたはずが、一体どうしてこんな場所にいるのか。立ち上がって、周りを見渡すと、やはりあのリビングに間違いない。その食卓テーブル、そこに並べられた椅子、家族の食器、雑誌ばかりの本棚、木製の掛け時計も全くそのままだったし、壁には彼の娘が描いた絵も飾ってあった。ふと、ソファーの方へ目をやると、敷き詰められたクッションに顔を埋めた少女がすやすや眠っていた。 「月子ちゃん?」 そのほうへ駆け寄って、少女の体を揺すると、薄く目を開けた。眠たそうに目をこするその少女はやっぱり月子だった。 「おじさん?」 「月子ちゃんか!よかった。無事なのかい?」 「助けに来てくれたの。大丈夫。だけど、私ずっとここに一人でいたの。」 「ここはおじさんの家だ。どうしてだかわからないけど、気づいたらここにいたんだ。だけど、もう大丈夫。ここから出よう。おうちへ帰るんだよ。お母さんもとっても心配しているよ。」 「だめ!だめなの。ここから出たらいけないんだよ。」 月子は彼の手を掴んで言った。 「どうして。出たらいけないのかい?」 「家を出たら殺されちゃうのよ。」 「殺されたりしないよ。一体誰がそんなこと言ったんだい?」 月子は青ざめて、何も返さなかった。ふと、人の気配を感じてテーブルの方を振り向くと女が一人、椅子に座っていた。その女は顔を伏せていたので、長い乱れた髪の毛が彼女の顔を隠していた。彼はしばらくその女をじっと見つめていた。彼が女の方へ歩いていくと、足音に気づいた彼女は彼の方へゆっくりと顔を向けた。顔はひどくやつれていて、濃い目の隈が痛々しかった。それは、離婚した彼の妻だった。 「もう、しっかりしてくれよ。僕はもう仕事へ行かなくちゃいけないから。」 彼は彼女に向かって、そんなことを言った。どうして、今そんなことを言うのか、自分でもわからなかった。 「あら、そう。勝手にすれば。」 「なんだよ。それ。」 「あなたはずいぶん元気ね。」 「元気なはずないだろう!僕が悲しんでないように見えるのか。」 彼女は嘲笑するような薄い笑みを浮かべてまた顔を伏せた。そして、聞こえないほど小さな声で何かぶつぶつと呟いた。 「陽凪が死んだのは、僕のせいだ。そんなことはわかってる。あの子は学校に行きたがってなかった。もっと話を聞いてやるべきだった。そうだろ?だけど、あの子の気持ちを何も考えずに、無理矢理学校に行かせたんだ。だから死んでしまったんだよ。君は反対だったね。だから、君のせいじゃない。僕が殺してしまったんだ。」 彼がそう言い終えると、もうそこには妻の姿はなかった。そこにあるのはテーブルと椅子、それに、汚れた食器がいくつか並べられているだけだった。 「おじさん?」 月子に声をかけられて、ようやく我に返った。 「ああ、ごめんよ。二階を見てきてもいいかな。」 月子は青ざめて、ただ首を振った。 「二階には行ったらだめ。」 「どうして。少し家の中を見て回るだけだよ。ここはおじさんの家だからね。何も怖いことはないよ。」 月子はやはり、だめ、だめと言って首を振ったが、彼は構わずにずんずん階段を上がっていった。月子は戸惑っていたが、再び一人になることを恐れたのかすぐに彼の後ろについた。二階には幾つも部屋があったが、彼が覗きたい部屋は一つだった。彼はその部屋の前まで来て、立ち止まった。扉には「ひなぎの部屋」とあった。彼がドアノブに手をかけると、月子がその腕を掴んで制止した。 「だめ、開けないで。開けたら殺されちゃうよ。その中にいるんだから。」 「ごめんよ。別に怖がらせたいわけじゃない。だけどどうしても中を見たいんだ。」 そう言って、月子に構わずドアノブを捻った。陽凪の部屋の中は彼が知っている、そのままだった。散らかった勉強机も陽凪がスープをこぼしてシミだらけになったベッドも散乱した少女漫画雑誌も全く彼の記憶のままだった。 「パパ、とっても久しぶりね。」 ベッドの上に腰掛けた陽凪は屈託のない笑みを浮かべていた。少女は落ち着いていて、彼がそこに来ることもわかっていたというふうだった。彼は、彼女の前に崩れ落ちて、その手を握った。もう何も考えなかった。 「どうして、どうして、ここにいるんだい。どうして、陽凪に会えるんだろうな。死んでしまったと思った。ずっと前に。どうしてだろう。俺も死んでしまったのか。」 「どうしてでもいいでしょう?こうして会えたんだから。」 陽凪が言い終わらないうちに、彼は彼女を抱きしめていた。確かにそんなことはどうでもいいことだと思った。またこうして彼女に会えたのだから、それ以上のことは望むべくもないし、もう、何も問うまいと思った。彼は泣いていた。 「ああ、そうだな。とにかくこうして会えたんだから、素晴らしい事に違いないんだから。」 「うん、うん。パパはいなくなったりしないでしょう?」 「いなくなるはずないだろう。ずっとここに居るさ。どこに離れる理由があるんだ。」 この間も、月子は部屋の入り口のところで彼らの様子をただ見つめていた。彼女だけが、未だ恐怖の中にたちすくんでいた。 「おじさん」  掠れる声でそう言った。 「なんだい。」 彼は娘との再会の感動に水をさされて、少し不機嫌な様子で振り返った。 「その子を除霊してあげて。天国に行かせてあげないと。」 「除霊?除霊だって」 彼は月子の言っていることが信じらないというふうに言った。 「いや、いや。そんなことしない。この子はそんなこと望んでない。」 再び彼が陽凪の方へ振り返ると、彼女の方も当然でしょと言うふうに肩をすくめてみせた。 「その子には帰ってもらったらいいわ。」 「そう、そうだな。それがいい。」 彼はまた月子の方を見て言った。 「月子ちゃん、この家を出るんだ。そして、君はお母さんのところへ帰るんだよ。大丈夫、この子はもう君に何もしやしない。大丈夫だよ。」 月子はそれを聞いて、階段の方へ駆け出した。彼女の階段を降りる足音を聞いて、彼はこれで安心だと思った。 「これで一緒にいられるのね。」 「ああ、そうだよ。ずっとだ。もう離れる必要はないんだよ。」 また、陽凪を強く抱きしめると、その温もりを感じた。その匂いも間違いなく、陽凪のものだと思った。そしてこれは消えることのない確かな現実なのだと、そう思うことにした。 「ねえパパ、私本当はずっとそばにいたのよ。」 「ああ、そうかい。そうかい。」 陽凪のいうことはよくわからなかったが、もう全てがどうでもうよかった。ただ、彼女が消えてしまわなければそれだけでいいと思ったのだ。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加