杏ちゃん

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 送別会を平日にやったのは、誰の案だろう。 今日から月初めの今日から営業へ移るという事なんだろうけど、飲み会の後、朝一で、羽田へ来客を迎えに行かされるのは、さすがに、すこしだるかった。 ヨーロッパ支社の偉い方が来て、一日付き合わされている。 夜の会食を早めに済ませて、ようやく自分のホテルに落ち着いた。 「こんばんは」 電話をかけて、話しかけると、すぐに 「こんばんは。読みますか?」 と杏の声がする。 「もうすぐカナリア島でちゃうなぁ」 子供の話だから、二作目の冒険もすぐに終わってしまう。 長引かせたくて、他の話をしてくれないか、と適当に言ってみる。 「え?エルマー以外ですか?」 少し戸惑う声がする。 「うん。適当で良いよ。本じゃなくても、覚えているやつで。お話してくれたら、いい」 桃太郎でも、浦島太郎でも、ぐりとぐらでも、なんでも。 俺はただ、杏の声が聴きたいだけだから。 そうですか、と少し考えて、昔話をしてくれるという。 「ある所に3匹のヤギがいました」 「……向こうの牧草はみずみずしく、とても美味しそう」 話を思い出しながら、話そうとしてくれている杏の声が可愛い。 「……橋の下からトロルが出てきて、お前は誰だ?と聞きました ……後で、僕より大きなお兄さんが来るよ。というので、トロルは小さなヤギを通してあげました。 ……オシマイ」 いつもと違う、杏の話をホテルのベットで聞いている。 落ち着いた朗読とも違って、かわいらしい。 愉しくなっている。 「その話、なんだっけ?」 と尋ねると、杏も不確かなようで、 「え?橋の下のトロルの話です」 なんて、適当な答えを返してくる。 「ヤギの話じゃなくって?」 トロルが主役なのか、ヤギが主役なのか。 どっちでもいいのだけど。 彼女がトロルを主役だと思っているのが、興味深い。 彼女は、世界を少し違うところから、見ている。 「さぁ。タイトルは忘れてしまいました」 杏がくすりと笑っている。
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