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すみません、お願いします、ありがとうございます、解りました。
彼は首を斜めにして、猫背で、視線が合わない目を剥き出しにして4つの言葉を喋るだけのでくのぼう。
誰が悪いのでもない。
その所有者が少し、若すぎたのだった。
そのでくのぼうを、慕いすぎていたのだった。
「山田が捕まったって?」
「誰が捕まえたんだ」
「尾崎だよ、半端野郎の」
「ああ、あの物書き崩れのうんちく探偵か。探偵とは名ばかりの便利屋だものな」
「そうはいってもこれで一騒動が落着だ。どれくらいで、来る」
「後一時間程でこちらに運ばれてくるらしいぜ」
藤堂の屋敷は騒然としていた。奇襲に備えて詰めていた男達は安堵する。なにせ、こちらから悪事を働いたのだ。山田という男の娘を攫って陵辱した。その復讐にくるのなら、欲しい物は決まっている。関係者の死だ。
山田はそうそう、理解の出来ない男ではない。きちりと物事を枠にはめ、解決する男だった。
目には、目を。歯には歯を。死には、勿論死である。
ここ二月は誰もが心休まらなかった。娘と妻が死んでから、山田は突然組を解散する、と言ったきり姿を消した。関係者は全部で八人。下っ端が四人、幹部が三人、それから直接的に関わらないけれど、そう言った悪事を黙って傍観していたもの。
下っ端が、三人殺られた。これで、後五人だ。先ほど見つかった最新の犠牲者の背中には、5、と大きく彫ってあった。
「でもよ、同情する余地はあるけどな」
中庭に出た男達が、煙草を咥えながらお喋りをする。藤堂の家は日本家屋の大きな屋敷だが、禁煙だ。中庭に置いてある灰皿以外での喫煙は禁止である。
「娘を殺されたんだから」
誰かがぽつりと呟くと、誰かが吐き捨てるように呻いた。
「じゃあ、あいつはどうだって言うんだ」
「あいつ?」
「雨洞だよ。山田が組を捨てなきゃ、あんな事には」
「しっ…、口が過ぎるのは災厄の元だぜ」
「ああ…」
「だけど、まるでゾンビだよ。元が筋の通ったいい男だっただけに、今の姿を見るとどうも、心が苦しくなっちまう」
「藤堂さんは悪趣味だからな。佑一の奴をけしかけて、あんな大勢の前で血達磨にしてから…」
「ほら、見ろよ。あの姿を見ると俺はぞっ、とするんだ。なあ…俺達だって、笑っている場合じゃないんだぜ」
男達が煙草を吸いながら見たのは、中年の男だった。いや、男の成れの果てだった。
藤堂家の母屋から離れに向かう渡り廊下を、奇妙な背格好をした男が行く。首を斜めに傾げ、猫背で、片足を引きずった体格のいい、短髪の男が歩いている。白い開襟シャツに、ありきたりのズボン。手には縁に雑巾を乗せたバケツが握られている。
「見ていられんぜ」
男の一人が眉を潜める。
「この世の中、理不尽だよ。性根が良かろうがなんだろうが、ああなれば終わりだ。ああなってまで生きたくはないもんだよな」
男達の声は、雨洞には聞こえている。だけれど心に響かないので、それは聞こえていないのと同じなのである。彼が動くのは命令された時だけで、それをきちんとこなすだけだ。それ以外は、自宅に帰って、大人しく座って、誰かが横に立っていて、彼の耳元にこう囁く。
「あんたは俺の女ですからね」
それに、わかりました、わかりましたとぽつりぽつり、呟くのだ。
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