34人が本棚に入れています
本棚に追加
二か月前のあの日は。
雨が降り出しそうな、陽気だった。
剣呑な雰囲気はここ二日、山田の事務所に停滞していて、誰もが(どちらにせよ、結果を!)と願っていた。
山田の娘の綾子が帰ってこない。警察からの話によると、学校の校門をでたばかりの綾子を連れ去った車があるという。誰もが目撃していたのに、どうして止めようとしなかった!と憤る山田と、泣いている山田の妻を見るのも、誰もが辛かった。どうして、と線の細い亀岡が呟くと、鬼のような形相の雨洞が、拉致った奴等、ただではおかねえ、と肩を怒らせて唸る。小さな組であったから、綾子が小さな時から皆、知っている。
ー電話が鳴った。
飛びつくように山田の妻が受話器を取る。
一言、二言、交わした途端に小さな悲鳴を上げて受話器を取り落とす。それをもう一度掴んで山田が相手に聞き直す。もしもし、もしもし?
それから、見つかったんですね?とにかく見つかったんですね?と繰り返した。
雨洞が自分の弟分の兄弟の佑一と佑二に車を回せ、と怒鳴る。彼らは本当の血の繋がった兄弟で、まるで双子のように似ていたが、その性格はまるっきり食い違っていた。一足早く佑一が飛び出すのを、慌てて佑二も追いかけた。二階にある事務所から、階段を駆け下りて、30メートル程の月極駐車場へ走る。途中で、佑二が佑一に問う。
「兄ちゃん大丈夫かな、綾子ちゃん大丈夫かな」
「解らねえよそんな事!とにかく、急げ。余計な事を考えるんじゃねえよ」
「だって、二日もいなかったんでしょ。大丈夫かな…」
「…考えたって仕方がねえ。いいか、なにがあったって、びびるんじゃねえぞ。お前は気弱だから、すぐに根を上げる。もし、どんな風になっていたって、普通通りに綾子さんを迎えるんだぞ」
「うん、解ったよ兄ちゃん」
頷く佑二の額にぽつん、と冷たいものが落ちる。上を見上げる佑二に、雨が、音を立てて降ってきた。
生き恥晒してまで、生きてえなんて思った事なんかねえぞ!
佑一、いっそ殺せ!
大勢の人間に押さえつけられた男が喚く。
その顔面を、佑一は思い切り殴った。その拍子に口の中が切れたのだろう、雨洞がその巨体を血をまき散らしながら暴れるので、もう一度強く殴る。もう、お願いだから黙ってくれ。
あんたの為だ。あんたの為にこうしているのだ。拳にその思いを乗せて殴るのだけれど、そういうのはちっとも伝わらない。雨洞の顔面が酷く腫れるだけだ、鼻血や切れた口の出血で酷い顔をしているのに、男はもがく、もがきまくっている。五、六人で押さえつけているというのに、時々反り返った雨洞の体がぐうっ、と浮くのだ。殴っても、殴っても。人は案外丈夫だ。いっそ気絶でもしていてくれれば、事は済むのに。思わず佑一は、雨洞の首に手を巻きつけた。両の親指でぐう、と喉仏の下を押すと、ビクッ、と雨洞の体が震えて悲鳴のような乾いた音が出る。危ない所まで首を絞めてから、手を外す。
佑一の脳裏にふとよぎる。…こんなことまでして俺は、この人を助けなくてはいけないのか?
いや、そうしなくてはならないのだ。この人は俺の恩人なのだ。どんなことがあっても恩を返す。そう思いながら、わざと冷酷そうに突き放す。
「うるせえんだよ、お前なんか、お前なんか、すみません、お願いします、ありがとうございます、解りました、この四つを言えればいいんだよ。他に喋るな、お前は俺の女だ、俺のもんだ」
「佑一、殺してくれ」
「だまれ、頼むから黙ってくれ」
「ふざける、んじゃねえええ!どけ、離せ、お前ら皆、ロクデナシだ畜生!地獄に落ちろ!」
押さえつけていた男の誰かが、堪らずに雨洞の口を塞ぐ。暴れる雨洞は、まるで死ぬことを悟ってあがくまな板の上の魚のようだ。本当は生かす為の行為だのに、雨洞は拒絶する。
妥協することを知らず、人の気持ちも知らず、この儀式から逃れようと、数人で押さえつけても手に余る程である。
「おい、佑一。早くやってくれ。…頼む、おい、お前。雨洞のズボン下ろせ。俺は肩を押さえているから」
「あ、ああ解った。俺がベルトを剥がしてズボンと下着を脱がせるから、そうしたら足をもて」
「解った、すまねえ、…な、なあ雨洞さんよ。あんたの為だ、あんたの為だから。じっとしてろ、ケツを犯される位で命が助かるんだから安いもんだろう」
「そ、そうだよ。すぐだ。ちょっとチクッとするだけだからよ…。頼む、お前の弟分の心意気、解ってやってくれよ」
「う、うううううううう!」
雨洞が吠える。やめてくれ、頼む、そんなことで命に代わるなら、殺してれ。
しかし、雨洞以外の男達は、違う選択をした。
雨洞を救おうとした。
救おうとしたのに。
最初のコメントを投稿しよう!