雨洞

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佑一はハッ、と目を開けた。横になってもいないのに、一瞬の間だけ夢を見た。いや、あれは夢ではなかった。あれは現実だ。過去に起きた事柄だ。 知らず、口に溜まった唾を飲み込む。今は集中しろ。 藤堂の家の応接間に、いるのは誰だ。自分と相撲取りのような男と、もう一人。下座の長いソファーに座っている二人に対して、もう一人、上座の一人掛けのソファーに座っているのは。 「佑一はさあ、どう思う?私としてはまず離れにでも監禁して、それから始末してもいいと思うんだけどなあ。三浦がすぐに埋めてしまえって言うのさ」 お調子者の声音が佑一に尋ねると、三浦の右隣にいる相撲取りのような体格の男、三浦がくぐもった声で、当たり前だ、と嗜めるように言う。 「山田には散々面子を潰されている。これ以上危険を犯すのは命取りだぞ。奴が自分は死んでも構わないと思っているなら尚更だ」 「当然だよね!だって、…あは、あははあ、か、家族が死んじゃったんだもんねえ!でも私は凄いと思う!家族の為にそこまで出来るお父さんってなかなかいないもんじゃないかい?だから山田に会ったらまず、まずは褒めてやろうよ!ね!」 「藤堂!」 「あ、あははあ。そうだよねえ。私等が悪いんだっけ?でもさ、凄いと思った事はちゃんと言ってあげるべきだと思うよ?私はさ」 「…藤堂…、貴様はいつも、いつも、人の話を聞かない男だ…。俺はもう限界だぞ。高坂の親父にお前を頼まれていなければ、とっくにその腐った頭を捻り潰している所だっ」 立ち上がる三浦につられて佑一も立ち上がる、落ち着きましょう、と三浦の腕に手を添えると、邪険に手を振り払われる。 「藤堂っ!もう山田はここに運ばれてくるんだぞ!さっさと、処分を決めろ!」 「あはは、お前は本当に見た目通りで全然面白くないよ、三浦。いや、面白くない所が面白い所でもあるんだけどねえ。でもね、一つだけ言わせてもらえるなら」 その男の特徴は、まず長い髪の毛だった。腰まである髪を首でむすんでいた。前髪もすべて後ろに回した男の額から顎にかけて女性的なラインではあるがきちんとした男性のフェースラインをした彼を見た女性達は必ず褒めた。 楽しげだ、いつの時でも。余裕をもっているのか、ただ、馬鹿なのか。 はっきりしているのは、この男は相当、常軌を逸していることだ。 「私は敵だと思ったものには容赦しないよ、三浦。どうだい、お前の気持ちが固まっているのなら、ここではっきり口にしてもいいんだよ?」 「…俺は、なにも、そこまでは言っていない」 「あはは、そうだろうね、うん!勿論私だってそう思ってるさ。元々怖い顔なんだから、しかめっ面はよそうよ。笑って?」 「…藤堂、今は」 「笑えよ」 藤堂の声音は楽しげである。抑揚の全てに無邪気さがある。柔らかさがある。 ただし、邪悪でないとは限らない。 三浦がギギギ、と錆びた歯車の擬音でも聞こえてきそうなぎごちなさで笑む。笑顔というよりはただ頬を歪めたとしか思えない有様だが、藤堂は満足したようだった。 「いいね、その気持ちを忘れちゃいけないよ。世の中苦しいことばかりだからね。面白いことがなくても、笑っていなくちゃいけないよ。楽しいことがなくても、笑っていればなんとかなるのさ。そうだろう、佑一?」 「その通りです」 「そうだね、君は聞き分けがいい。でも、君も笑っていないね。あ、あははあ。今日は仕方ない、仕方がない。君は苦労性のお兄ちゃんだもの。ねえ三浦、この子は本当に孝行者だから、私はこの子が大好きなんだ。あれ、三浦はだから機嫌が悪いのかい?僕がこの子を好きでいるから。嫉妬しているのかな」 「藤堂…っ!頼むから、ちゃんと話をしてくれ!もう、一時間なんだぞ?一時間で山田が」 「だからさっき結論は出した筈だよ。離れに監禁するんだ。ー私は、山田の事が嫌いじゃなかった。いいや、好きだった、かなり好きだったんだよねえ」 藤堂が立ち上がる。かなりの長身だ。 男らしいというよりは、どこか女の優しさを残した顔は、四十手前にしては若すぎる。その癖時々見せる表情は、老獪な老人が被虐趣味を楽しんでいるようだ。優一は三浦の顔を盗み見る。かなりの憤りを溜めているようで、拳をギュッと握り締め、浅黒い肌をした額には、うっすら青い血管が浮いている。それでも藤堂に強く言えないのは、高坂が藤堂を気に入っているからである。藤堂が気に入るようにやれ、と呟く上の者に、直情的な三浦が従っているのは、まだ三浦は利口だということだ。列をはみでれば処分される。上に行けばある程度の無茶は通る。それまでの我慢だ、駄目だと思えばもう十年、それでも駄目ならまた十年、なのである。 藤堂が身をかがめて座っている佑一の目線に合わせ、顔を近づけた。 ああ、こいつは、本当にいい顔をしやがる。幸福の笑顔を。突如佑一は、まるで癲癇の瘧のように、藤堂を傷つけたくなった。誰のせいだと思っているんだ、自分の担っている災厄のほとんどがお前のせいじゃないか。顔を歪め、唇を噛む。ふとしたら、本当に藤堂を殴ってしまいそうだからだ。 それを解っていながら、藤堂が笑う。私は誰よりも幸福ですよと、ニタニタした顔を見せつける。 「ねえ佑一。君は今でも雨洞を抱くかい?」 「ええ、勿論」 「飽きることはない?」 「ええ」 「ふうん。…ねえ、こういうのはどうだい?今日山田が来るだろう?その前で、雨洞を抱いておくれよ。兄弟分だった雨洞と、その兄弟分だったお前がさ、どんな風になったか見たら、いつもすました顔だった彼はどんな顔をするのかな?私はとっても楽しみなんだよ」 俺達はストリッパーじゃない! そう怒鳴りたいのをぐっと堪える。 こいつは、よくもまあ、人の嫌な部分を解っていながら突いてくる天才だと思う。誰に対してもそうだ。返事をしないでいると、藤堂が、そうだ、とわざとらしい口調で言った。 「雨洞はいつもお前がいない時、どうしているんだっけ?」 「こちらの屋敷で掃除や雑用を。それくらいなら出来ますから」 「そう…。でも心配ではないの?」 「心配、ですか?」 「心配だよ。だってね、雨洞はほとんど、ほら、頭がアレになったでしょう?そうしたら、性根の悪い誰かが悪戯をするかもしれないからさ…」 「そんな、まさか」 「ねえ、最近雨洞が変な行動をするようになった事はないかい?」 …佑一の体の奥底からスウッと冷えた。まさか。
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