蟲毒の壺

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吉祥天と毘沙門天の子は、阿修羅と名付けられた。地獄の中で生きるには、とインドラが名付けた。 驚いたことにインドラは阿修羅を我が子のように愛した。粉ミルクをといて飲ませてやりオムツをかえ、いつも肩に阿修羅を乗せた。 阿修羅はにこにこと笑う愛らしい子供であった。言葉を発するのは遅かったが、その身体能力はずばぬけていた。一歳で立ち上がると、二歳には走り回り、誰よりもすばしこいのだ。 阿修羅はインドラを父と呼び、毘沙門天を母と呼んだ。「壺の中」では子供はおろか、夫婦などいなかったので、それが異常だとは気がつかなかった。 毘沙門天はまだ、繋がれていた。家の中で青白い顔をして座っている毘沙門天に阿修羅が「母さま」と呼びかけると、毘沙門天ははらはらと涙をこぼすので阿修羅は哀しくなるのだと、この儂にも言っていた。母さまは僕の事が嫌いなのかしら。父さまは僕を見るとにこにことお笑いになるのに、母さまはちっともうれしそうではないのです。 だから、そうではないのだと皆は阿修羅に言ったよ。 「母さまはお病気なのだよ」 「どうすれば治るの?」 「お前が元気にしていれば」 「いつ治るの?」 「お前が賢くしていれば」 阿修羅は賢かった。そして、誰にでも懐いた。 ここには碌でもない者ばかりがいる。が、阿修羅を嫌っているものは見たことがない。どんなに陰気な者にでも、阿修羅の明るさは嫌味にならなかった。さながら阿修羅は月の光のような存在だった。 阿修羅は皆で育てたようなものだ。 毘沙門天の声は、吉祥天が死んだ時から出なくなってしまった。あの時、きっと全ての音を使い切ってしまったのだろう。 女の衣服に包まれた体は昔の雄雄しい毘沙門天の面影はなく髪もインドラが切らせないので、長髪である。 知らない者が見れば、女と思うかもしれない。毎日甲斐甲斐しくインドラは毘沙門天の髪に櫛を入れてやり、唇に紅をひいてやる。試合で死んだ女の衣装を集め、毎日毎日衣を変えてやり、鎖で繋がれている毘沙門天の為にたらいに湯をはって、自ら体を拭いた。毘沙門天はただ、阿修羅がいるから大人しくしているだけで、今にもインドラに飛びかかり、喉元を掻っ切るか、もしくはさっさと自分が死にたいのは誰の目にも明白だったが、インドラだけは気がつかないのだ。必死でご機嫌取りをしつつ、子供の面倒を見る。まるで高嶺の花の女房を嫁に貰った男のようで、滑稽であり、おかしくもある。何故ならインドラ、毘沙門天の全てはお前が奪ったではないか。阿修羅の指の一本でも折って見せ、お前が擦り寄らねばこの餓鬼の首をへし折ってしまうぞと脅せばいいではないか。儂たちはみな思った。 だが、インドラが欲しくなってしまったのは、毘沙門天の心だった。 あなた、とにこりと微笑みかけてほしいのだ。 阿修羅がインドラに父さま、と微笑みかけてくれるように。 インドラが毘沙門天を抱くときは、阿修羅は外に出される。ガシャン、ガシャンとなにかを投げつける音がして、インドラが毘沙門天に媚びるような会話をした後、それでも抵抗をやめない毘沙門天に腹が立って手ひどくなってしまうとよく子守役を無理やり押し付けた儂にインドラが言ったことがあったよ。
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