蟲毒の壺

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一つ、二つ、でもよかった。幼い阿修羅に全ては難しいかったろう、だが住人は明日試合で死ぬかも知れない者共ばかりなのである。その前に阿修羅の内面に少しでも自分の知識を刻み込もうと、彼らは阿修羅の手を取り、または文字を教え、体を鍛える術を教えた。 阿修羅は夜になると家に帰って、椅子に座っている毘沙門天に今日教えてもらった出来事を話してきかせたり、体術を披露した。毘沙門天は悲しげに微笑んで阿修羅の頭を撫でてやったそうだ。 阿修羅が五歳になった時、いつものように毘沙門天の前で今日教えてもらった剣の使い方を披露していると、つつ、と毘沙門天の痩せた指が阿修羅を呼んだ。そして剣を自分が握ると、こうだ、というように剣を動かして阿修羅に剣を剣を返した。 こう?ともう一度やってみせると、そうだ、と満足げに毘沙門天が頷いた。それから何通りかを教えると、今日はおしまい。とばかりに阿修羅を抱き上げて、自分の膝に乗せた。 「母さま。僕母さまの剣の動かし方が好き…。明日ももっと教えてね」 頷く毘沙門天に満足したのか、阿修羅は嬉しそうに毘沙門天に抱きついた。 それをインドラがそばで見ていた。 次の日、いつものようにインドラが毘沙門天の髪を梳いた。 そして、紅はひかなかった。代わりに男物の服を毘沙門天に与え、長らく毘沙門天の自由を奪っていた首輪と足輪を外した。驚いたように毘沙門天がインドラを見ると、インドラは難しい顔をして、言ったそうだ。 「阿修羅にお前の剣を教えてやってくれ。鎖があると不便だろうからな。…リングの東側の所に家が一軒空いているそうだ。帰ってきたくなくば、そこへ住めばいい。俺を殺したくば、阿修羅が大人になるまでまってくれ。俺が生きている間はお前と阿修羅は試合をしなくていいのだからな」 最早インドラは毘沙門天と阿修羅を本当の家族だと思っていた。 思っているが故に彼らをこのままにしてはいけないと、あの野獣のようだった男が考えたのだ。 毘沙門天は黙って男物の服に着替えると、そのまま阿修羅と剣を持って出ていってしまった。 インドラはおん、おん、と慟哭した。 しかし、夕刻(ここは一年中ほの暗いのだが)になると、二人は帰ってきた。阿修羅は母と初めて外に出た喜びにはしゃぎすぎて寝てしまったようで、毘沙門天がおぶっていた。 どうして、とインドラが呟くと。 毘沙門天が困ったように微笑む。 それから床に落ちている首輪を指差すと。はめてくれ、と自分の首を指さした。インドラと毘沙門天の生活は長すぎたのだ。 どちらにもそれなりの感情が芽生えて、しかるべきなのだ。
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