蟲毒の壺

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毘沙門天がそっ、と我が子の耳を塞いだ。インドラの髪は怒りで逆立つ程だった。だが、何十というインドラ達を囲む男達は下卑た声で笑い、怒鳴った。お前らは、かりそめの家族だった、さあ、ここに来い、堕ちてこい、お前らだけが幸福であることに、俺たちは怒りを覚えているのだ、というような事を言った。 毘沙門天、お前を犯してやろうか、それともお前のかいな(腕)に抱いている子の四肢を引っ張って引き裂いてやろうか。 ともかく。 ここまで堕ちてこい。俺たちと同じく地の底の地獄を這いずりまわれ、そうではなくては不平等だ、ああ俺たちは限界だ、この糞尿と血と苦しみに混じった世界でお前たちだけが幸福でいるということが一番の地獄の苦しみだ! …その周りで騒ぎを見ている野次馬どもも、悲しそうな目をしながら助けようとはしなかった。 自分たちが弱いと知っているから、が一番の理由ではないだろう。嫉妬や、自分たちがそうではなかったので、ということも原因だろう。 我々は悲しいかな、善人ではなかった。 さあ、さあ、さあ、さあ! 男達は足を踏み鳴らしインドラに殺生を命じた。 インドラは、次第に弱々しくなる。彼もまた善人ではないので、善人の処し方など解ろう筈もない。狼狽の色を顔に浮かべながらただただ、首を振った。嫌だ、嫌だ、と口走っている。 そこでシヴァはならば、と言って新たに自分の部下となった男達に命じた。毘沙門天と阿修羅をリングに乗せろ。血を分けた者同士殺し合え、生き残った者を助けてやろう。 血と他人の苦しみに飢えた男達はインドラ達に飛びかかった。インドラは持ち前の巨体で寄ってくる男の顔を拳を振りかぶって叩き潰し、足で男どもの腹を踏みにじった。だが二人もの人間を庇っての戦いはどう考えても不利だった。人数に物を言わせた攻撃にたちまちインドラは取り押さえられ、毘沙門天と阿修羅は大勢によってリングの上に引きずられていく、嗚呼、嗚呼、インドラは憤った男達に殴られ、嬲られながら、血の涙を流して己の家族の名をあらん限りに叫んで、許しを乞うた。 俺ならどうなってもいいのだ、頼む、俺の妻を、子を! 俺は悪人であった、人の皮をかぶった獣であった、それを救ったのは、俺が嬲った男であり、その子であるのだ!救いをくれた者がなぜ、救われぬのだ! 「それがこの世界だ」 シヴァがおごそかに言う、二人の死を願う声があたりに響く、心ある者は、涙したが、その実、なんの行いもしなかった。 広いリングの上には、親と子が一人ずつ相向かっていた。 辺りは怒号に包まれて、阿修羅は怯えて泣いている。手に握らされた短剣を胸に隠すようにして、母さま、と毘沙門天を呼んだ。 「こわいよ、此処は、戦う場所だ。僕はずっと見ていたの。父さまが誰かと戦い、誰かが倒れるのを僕はじっと見ていたの。僕も戦って倒れなくてはならないの…?そのまま動かなくなってしまうの…?」 毘沙門天も武器を持っていた。長い剣を。リングに上がる前にシヴァの部下に囁かれた。 (阿修羅を殺せ、憎いインドラに懐いた裏切り者を。今こそ吉祥天を殺したインドラに復讐するときだ。そうすれば命は助けてやろう。…別に構わないじゃないか。お前は、女でもなし、妻でもない。インドラが育てた子供になど、なんの未練もなかろう、インドラの首もお前にとらせてやろう。憎い憎いインドラに、死の贈り物をしてやろう) 毘沙門天は泣く我が子を見つめながら、ただ無表情であった。 やせ細った体、いつのまにか女のように扱われた体は余計なものが取り除かれ、痩せた、背の高い女のような体型になっていた。 嗚呼、声も奪われた。愛しい女との間に産まれた赤子も、インドラの思想が入り、癖が入り、そして毘沙門天を母さまと呼ぶ。 毘沙門天はスッ、と剣を掲げた。 阿修羅は母さま、と乞う。 その言葉が聞こえないように振舞う毘沙門天は剣を振り下ろした。
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