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空に。
そして停止、そこから足を踏み出して方向を変えると、次は架空の相手を斬りあげるような舞をする。
一の型、二の型、三の型、舞うように毘沙門天は剣を振るう。
これは。
「剣舞だ…」
誰かが囁く。居合の型、切り結んだ相手との処し方、その踊るような振る舞いに、儂は震えたよ。
彼は阿修羅に教えようとしているのだ。最後の最後で阿修羅の戦う術を残そうとしている。
美しかった。
ただ、美しかった。神事の際に踊る巫女のようだった。
阿修羅もその気迫を理解できたのか、一つの所作も逃さぬようにじっ、と見つめている。
「なにをしている、殺し合え!」
シヴァが怒鳴るが、毘沙門天は動きを止めない。
やめさせようと男達がリングに上がろうとしたが、これを野次馬たちが止めた。
「続けさせてやれ!」
「少しの間じゃないか!」
そして、毘沙門天がすべての動きを終えた時、彼はリングの縁に立っていた。インドラが見える位置で、インドラを見下ろしていた。
二人は見つめ合った。
なにかを察したインドラが首を振った。
やめろ、か細い声がインドラから漏れた。
毘沙門天が阿修羅を振り返る。目を、閉じていなさい。
ソッ、と自分の手で目を覆うような仕草をして阿修羅にいいつけると、素直に阿修羅は従った。
そして、
毘沙門天はインドラに微笑みかけた。なにか、呟いた。
自分の首に剣の切っ先をあてると、迷うことなく動脈の部分を切り開いて、リングから飛び降りたのだった。
インドラは絶叫し、狂ったように体を震わせて取り押さえていた男たちを全てなぎ払い、落ちてきた毘沙門天を受け止めた。そして首から溢れ出る鮮血を手で押さえて食い止めようとするが、それは無理だというものだろう。嗚呼、嗚呼、とインドラは消えゆく命を腕に抱き狼狽した。両の目からはとめどなく涙が溢れている。
「我が妻、我が妻よ!何故お前が死なねばならぬのだ、俺が全て悪いのに、どうしてお前は最後に俺の腕の元へ来てくれたのだ。愛しき妻よ、逝かないでくれ…!」
毘沙門天の口からは血がまとわりついていて、しかしちっともおぞましいようにはみえなかった。唇に紅をひいたような、なにかしら一種の神々しさがあった。
だが、それはきっとこちらの幻想なのだ。
毘沙門天は事切れていた。
物言わぬ骸になっていた。
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