蟲毒の壺

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「馬鹿野郎、そんな言葉で呼ぶんじゃねえ。お前なんかな、生まれた時から大嫌いだったんだ。もう酔狂は沢山、こんな世の中も沢山だ。早い所、楽にしてくれや」 「父さまは、僕の父さまだ。どんな人でも僕の本当の父さまだ」 「お前なんか、嫌いだ。阿修羅って名前もな、嫌味でつけたんだよ。いいか、地獄って所でな、永遠戦う仏の名前なんだぞ。繰り返し繰り返し、そいつの行く所はなあんにもない、ただ骸が転がっている、寂しい寂しい仏の名前なんだあ。お前なんか、ただの太郎だって十分だったのに、阿修羅なんか、嫌味でつけたんだぞ」 「ここも地獄だよ、父さまがそう言ってらしたじゃないか」 「そうだ、そうだ。ここも地獄だが、死ぬ地獄はもっと辛いぞ。だが、ここよりは一等ましだ。なあ、早く首を切るんだ。お前も男だろう。俺だって男だよ。男はな、生き恥を晒されるのが大嫌いな生き物なんだぜ。パーッとな、散らしてくれよ。知らないやつより、お前の手にかかるほうがうんとましだ。そうしてお前は本当の阿修羅になれよ。戦って、戦って、この地獄を生きるがいいのさ」 ああ、愉快だ。俺は畜生のような男だ、そうして派手に死んでやるのだ。そう言って野太く良く通る声でインドラが笑った。 阿修羅は痙攣のように震えて泣いた。 だが、不幸な事に彼らは家族であった。インドラを父と慕い、毘沙門天を母として愛した。 その父が優しい目で自らの死を息子に委ねた。 このような不幸があっていいのだろうか。愛があるゆえの不幸は、果たして不幸か。 とんでもなく不幸だ、そして、あるものにとっては幸いだ。 阿修羅は毘沙門天の死体が握っていた長剣をもぎとった。まだ泣き止まぬ。 しばらくして泣き止んだ。 剣を振りかぶった。 インドラは目を閉じる。 そして 広場は静寂した。 その日に本当の阿修羅が誕生したのだった。 「それから、どうなったんだ」 かすれた声で老人の話を聞いていた男が尋ねた。老人はふむ、といって長い白髭をなでながら頷いた。 「その子はまず、若すぎた。シヴァがすぐにでも試合を組むべきだと言ったが管理人である儂は初めて上のお偉いさん共に申し出たよ。この子はまだ八つ、若すぎる。古来日本は十二で元服だからそれまで試合はまつべきだ。それに非公式だが二人も阿修羅は人を殺した。大人連中と面白い試合ができるようになるまでたった四年の歳月だけが必要なのですと言った。上の連中は面白いという言葉に敏感だ。儂は阿修羅の預かり親になったよ。最初の内、阿修羅は泣いてばかりいたが、それを過ぎると猛然と剣の練習をし、体を鍛え、儂や博識な連中に知識が欲しいと乞うた。無論それらは彼の人間性と生い立ちによってほとんどの願いが叶えられたよ。阿修羅は穏やかな子になった。泣かず、騒がず、ただ大人しいだけではない少年になりつつあった。彼は言う。剣を振るう時、戦いの習い事をする時、静かになる。それが一番好きな世界だと。彼は戦いの申し子だった。全ての条件が彼を阿修羅という名にふさわしいものに仕立てていく。嗚呼、運命に翻弄されるとはこの事だと思った。そして、少し案じたよ。…もしや、彼の行く先はこのような修羅の道しか残っていないのではないのだろうかと」
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