蟲毒の壺

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「俺は特殊な環境で産まれてな。信じてもらえないかもしれないが、ともかく、俺は家族と共に特殊な、特殊な環境にいたのさ」 薄暗い部屋の中で山田はぽつり、と言葉を漏らした。 「壺の中」のこと、毘沙門天と吉祥天のこと、インドラのこと、 シヴァの反乱のこと、カーリーのこと。 インドラの首をはねたのは誰か、ということ。 壺の中から出てきた阿修羅という子のこと。 尾崎は黙って聞いていた。 鼻で笑うこともできた。なぜならこれは、とんだ空想。というに相応しい話だったからだ。 だが、納得もできたのだった。 なぜなら山田はあきらかに異様であったからだ。 暴力の中にいても、彼は高揚しない。むしろ常の生活がそうであったかのように彼は振舞っていた。 山田はしみじみと言う。 「壺の中から出てきた俺は山田、という男の養子になった。名前を聞かれたので、阿修羅というとそれは使えないという。それなら太郎で十分ですと言うと、山田太郎とは平凡な名前になるなと義父は笑ってくれたよ。義母も優しかった。毎日の平穏とは、こういうものだったのかと思ったな。…普通の人間よりは暴力に近しい家庭ではあったが、それでも俺には天国のような日々だった。義父を手伝う傍ら、旅もした。「壺の中」は狭かったのだ、と思い知ったよ。バイクの免許をとって、暇があれば駆けた。素晴らしい時間だった。そして…、妻と出会い、娘も出来た。俺はこのまま、この幸せな生活が永遠に続くと思っていたよ。娘の孫を抱くまで死ねないと妻に言うと、まずは結婚でしょう。あなたは綾子を溺愛しているから綾子のお婿さんは大変ね、なんて言っていたな」 だが、今の俺にはなにもないのだ。 山田は微笑んでいる、薄く笑っている。面白い訳ではない、笑いたいわけでもない、憤るべきところだ。 だが、彼の心は凪いでいる。 いつもそうだ。悲しい気持ちはある。 哀しい、悲しい、哀しい、悲しい…。 だが怒りはなかった。 欠如していた。 彼の心にその感情はないのだ。 「俺は異常だと言われた。綾子がひどい姿で戻ってきた時に俺は泣いた。泣いたが怒らなかった。よく戻ってきた、と笑っていたらしい。俺は二人を愛していた。だが女房は罵った。人でなし、異常者!娘をこんなふうにされたのにどうして怒らないのかと。…俺は、精一杯、家族を愛していたよ。悲しかった。だが、他にどうすればいいのか、解らないんだ。誰かが傷ついても、死んでも、悲しいとは思うのに、怒りがなぜだか湧いてこないんだ」 穏やかに山田が言う。尾崎は黙っている。 …怒りは原始の心であると言う。 だが、きっと、 彼は阿修羅なのだ。暴力と非道の世界、修羅道で彼は産まれた。 そうであるが故にそこが普通なのだ。 彼は、人間道であるこの世では奇異なる存在だったのだ。 穏やかな狂人に尾崎は言葉をかけた。 「俺が、いる。最後まで付き合うぜ。…最後までやりとげようぜ。」 そうすると山田は嗚呼そうだな、お前がいてくれて嬉しいよと微笑んだ。
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