心の帰り着く場所

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

心の帰り着く場所

 引き上げ船の中で神崎という退役中尉と知り合ったのはほんの偶然だった。多くの復員兵の中でこれといった特徴のない件の中尉は、七つ年長で広島が故郷だと言う。彼のかける丸眼鏡のレンズがポロンと取れて転がってきたのを拾ってやったのが縁だった。  今日の昼過ぎに港を出た船は、順調に進めば明日の朝に舞鶴へ到着する予定だ。今晩は日本海の上で船中泊となる。海路は今のところ穏やかで、予定通り旅程を消化しつつあった。  船底の船員室でじっと蹲っていたが、夕方の五時頃になって糧食を配り始めたので、姿の見えなかった神崎を探しに甲板に出た。黙っていると貰いそびれてしまう。他人の分はくれないので本人が受け取りにいかねばならないのだ。  それで神崎を探しに来たのだが、甲板をぐるりと回ってみると、舳先(へさき)に立つ彼の後ろ姿を見つけた。夕陽を背中に浴びてじっと海を見ているようだった。 「神崎さん、下で握り飯を配ってますよ。貰いに行きませんか」  夕食用に配ってくれているのだが、味噌汁も貰えるらしいから船倉に行こうと誘うと、神崎は振り向きざまに目元を拭った。吹き付ける風にまかせて彼は滂沱として涙を流していたのである。 「どうかしたんですか」 「いや」  驚いてつい訊ねてしまった。男泣きの様子にふと立ち入ったことを聞いてしまった迂闊さを悔やんだが、神崎は拘る様子もなく鼻をすすった。尻のポケットからハンケチを取り出して顔をぐしゃぐしゃと拭う。 「なに一度、思い切り涙を流してみたかったのだ。舳先に立つと背中に夕陽が熱くてね。死んだ女房を思い出したりしてしまった」 「奥方を」 「ああ、妻は中国の人だったが日本語が流暢でね。気立てのいい女だった」 「それは、ご愁傷様でした……」  何と言っていいものか判らず、おずおずとした気持ちで向き合うと、涙を流した人の目は、まるで洗われたかのようにとても澄んで見えた。  そのうちに糧食を貰った人たちが、それを食うために甲板に上がってきたため、あたりは俄かに賑やかになった。神崎は大きく深呼吸をすると背中を向けて言った。 「呼びに来てくれたのだったな。私たちも飯を貰いに行こう」  甲板からタラップを伝って船倉へと降りる。すれ違う人たちはみな一様にどこか欠けたような表情をしていた。戦争が終わって、大陸を追い出された人たちが、この大きな船に乗り合わせているのだ。何か連帯のようなものがこの空間には蟠っていた。それは互いの足を鉄鎖で繋ぐような重い連帯感だった。  戦前戦中の立場や身分は様々だったろうが、今はみな同じ復員船の乗員だった。皆が互いにちょっとずつを譲り合って、船の中の秩序が保たれている。中尉と伍長が肩を並べて海を眺めているその状況も、そうした世の中の流れならではのものだろう。とは言えこちとら、伍長と言っても下士官教育など受けていない野戦任官だ。何をか言わんや、である。  いずれ舞鶴の港に着いたら、国中がそんな様子なのに違いない。故郷は、故郷の人たちは健在だろうか。手紙を出しても返事の戻ってこない故郷が、胸の中に浮かびかけて不意に立ち消える。帰る場所は本当に今もあるのだろうか。 「そう言えば聞いていなかったが、君は、細君は」  味噌汁の列に並んでいるとき、前を譲ってくれた神崎が周りには聞こえないくらいの小声で訊いて寄越した。 「まだ貰ってません。婚約者のような娘はいますが」 「そうか、きっと健在だろう。君の帰りを待っているに違いない」  前を向いたまま背中に神崎の声を聴き頷いた。  配られた握り飯は二つずつで、味噌汁に具は何も入っていなかった。だが食べることは身体に確かに力を与えてくれるようで、塞ぎかけていた気持ちが少し明るさを取り戻した気がする。味噌の塩味が枯れた唾液を蘇らせて、内側の頬肉を弛緩させた。  飯を食い終わるとすぐに灯が入った。だが読書をするには心許なく、ただ眠るには邪魔な行火である。  中には手作りの将棋を指す者もあったが、これと言ってすることもないので、薄い毛布にくるまって船倉の床に寝転がっていた。床からはスクリューを回すエンジン音がゴロンゴロンと響いている。この広くはない空間にどれほどの人が居合わせているのだろうか。隣で丸くなっている神崎は既に眠っているのか寝返り一つしない。  その夜、眠りは波のように寄せては返して、眠っているのか起きているのか判別もつかないないまま、朝が迎えに来るまで何も考えず、ただただ埃の匂いのする毛布にくるまっていた。  ◆◇  翌朝、やはり舳先に立つ神崎を見つけたが、今朝は声をかけずに人込みの中から退役中尉の背中を眺めていた。  同じ部隊に居たわけもなく、同郷と言うわけでもない。増してや友人になったわけもなかった。ただ姿を見かけたからと言うだけで、気軽く声をかけるような関係性ではないと思い直したのだった。  船べりにもたれて空を見ていると大きな白雲が西から東へ流れていくのが見える。このままどこか遠くへ行くのも悪くない、などと空想をしながらぼんやり過ごしていると、いつの間にかこちらを見つけた神崎が「やあ」と声をかけて寄越した。  手には非常糧食の乾パンの缶詰を持っている。それはもう開封されており、差し出されて反射的に手皿を作ると、掌の上に四つ五つと乾パンが転がり出てきた。 「荷物の中に残っていたのを見つけたので、君と分けようと思って探していたんだ」 「俺を、ですか」 「ああ、そうだが?」  神崎は不思議そうに小首を傾げた。 「……いただきます」  口に入れた乾パンは、柔らかいような堅いような歯応えで、しがんでいるうちにちょっとずつ甘みが染み出て来る。神崎は「失礼」と言って隣に忍びやかに腰を下ろした。 「君は故郷に戻ったら何をするつもりだ? 私は元の銀行員の口でも探そうと思うが」 「広島でですか」  つい反射的に聞くと、神崎は遠くを見つめたまま頷いた。  彼だって広島に何が起こったのか、当然のことながら知っているはずだ。  戦争が終わって一年が経っているのだ。ようやく復員船にありついて本土に帰る船中、不安がないはずはない。きっと口にすることで悪い考えをせぬようにはかっているのだ。  ならば、と頭の中で考えていたことを口の端に乗せた。考えていただけで誰かに言ったことはないことだ。 「自分は教職に戻るつもりです。傍らで家の田んぼをやりながらですけれど」 「そうか。確か君の故郷は丹波だったか」 「はい、柏原(かいばら)と言う町があって、古い小さな城下町なんですが」 「確か織田公二万石だ」 「ええ」 「では途中まで一緒だな」  神崎は広島に帰るのに一度大阪へ出てから山陽線で行くという。大阪までは舞鶴から阪鶴(はんかく)線が走っており、途中神戸や岡山で知人の安否を確認しながら帰るらしい。柏原は舞鶴から大阪の路線の半ばあたりの田舎町だった。  神崎の言う通り、柏原は古くは織田氏の領地で、覚えている限り山と川と田畑、小さな商店街と寺と神社それと学校、それだけの町だ。  田舎町だから空襲には一度もあっていないだろう。近くの篠山には師団が駐屯していたから攻撃を受けたとかどうと言う話を聞いたが、噂話にも篠山以外の丹波の町の名前を聞いた覚えはない。出征した日のまま、あの町はあそこにあるはずで、そう思うと急に胸がいっぱいになった。  ◇◆◇  舞鶴についたあと、そこで列車を待つために二日留め置かれた。港に迎えのある者もあって、そこいらですすり泣く声がいつまでも耳朶の奥に残っている。誰も待つものがいない自分は早々に割り振られた宿へ引きこもった。  留め置きの間も神崎は方々へ出かけて、その都度一緒に見物に行かないかと誘いに来たが、不調を理由に何もかも断ってしまった。  舞鶴では神崎とは別々の宿だったが、偶然なのか列車は同じ時刻のものが割り当てられた。大陸で隣り合った部隊に所属していたためだろうか。ともすれば神崎が割り当ての担当者に相談したのかもしれない。なんとなく世話を焼かれているようで業腹な気もしたが、同じ列車と知ってほっとした気持ちがあるのも本当のことだった。  伍長だった身分からすると、神崎との階級差は雲泥のものがあったが、戦争が終わればそうしたものは遠くに聞こえる残響のようなもので、本当にそんな時期があったのかとさえ、ほんの一年前までのことなのに思うことがある。このときもそうした気分に押し流され、いつしか有難いと感じる気分が多勢になった。  列車に乗る前の晩、寝苦しい中何度も目が醒めたが、途切れ途切れの眠りの中に夢を見た。 『こうちゃん、あなたいったい何人殺してきたの』 「……仕方がなかったんだよ。戦争だったんだ。そうしなければ俺が殺されていた」 『言い訳はいいの。何人、中国人やロシア人を殺したの』 「…………」 『ねえ、何人殺したの』  声の主は黒々とした暗闇の中にいて誰とも判別がつかない。女の声なのは判ったが、それが誰なのか、知っている人であるのかどうかさえ判らない。  朝、しっかりと覚醒した時には布団を蹴り飛ばしていた。じっとりとかいた汗が気持ち悪く、無暗に胸元を搔き乱した。バリバリと爪を立てて、気が付くと血が滲むほどに掻き毟っていた。 「君、ずいぶんと憔悴している様だが、平気かい」  列車に乗り込むとき、二日ぶりに会った神崎にそう問われたが、何も答える気分になれず、小さく首を振った。  宿に持たせてもらった握り飯の包みにも手を付けられず、水筒からぬるくなった水を時折口に含むくらいしかできなかった。  それでも順調に鉄道の旅は進み、福知山を出たあたりでようやく気分が落ち着いてきた。時間は午後を大きく回って、柏原につくのは夕方に差し掛かる頃だろう。 「そろそろお別れだな。支度をした方がいい」  車窓から遠くを見ていた神崎が不意に言ったので、それまで黙っていた反動からか、つい「神崎さん」とすがるように声をかけてしまった。 「なんだ」 「神崎さんは、大陸で何人殺したか覚えていますか」  生唾をごくりと呑んで、俺は十七人、殺したと思います、と言っていた。  神崎はじっとこちらを見て、それから左右の両肩に手を乗せた。 「いいか伍長、戦争だった。そうするしか生きる方法がなかったのだ。だが、そんな詭弁はこの先君の人生を苛むだろう。それは君がいつか死ぬ時まで背負わねばならん業だ」 「俺、これから普通に生きていけるんでしょうか。子供に読み書きを教えて、人が食うものを作って、そんな資格が俺には」 「伍長、人は生きねばならない。死ぬ時が来るまで、ただ生きるしかない」 「い、生きるためにたくさん殺したんです」 「生きるしかないんだ伍長。君にその資格があったかなんてことは、君がいつか死ぬ時が来るまで誰にも判らん。君にも、私にも判らん」  そう言う神崎の目にも涙があふれ、両肩を掴む左右の手はわなわなと震えていた。その目の奥には空虚な闇がある。それはきっとこの時代の人たちの誰もにあるものだったろう。  何かを欠かしたまま、人々は日常をただ生きている。目の奥の仄暗いそれは、失った心なのかもしれない。 「お、俺は故郷に帰って、町の人たちに会うのが怖い」 「大丈夫だ。君の失ってしまった心は必ず故郷に帰っている。取り戻しに行くんだ。私もそれを取り戻すために広島へ帰る」 「神崎さん」 「大丈夫だ、きっと大丈夫だ」  う、ううと言葉を詰まらせたまま、神崎の腕に縋ったまま蹲った。同じものを背負った人が近くにいてくれるのは心強かった。  やがて列車は速度を落とし、車掌が「柏原」を告げる。自分たちの物ではない、誰かのどこかの日常に迷い込んでしまったような気がした。ここは本当に自分の知る故郷の町だろうか。ここにいる人たちは、今の自分を知る人たちではない。  その時、背中を強く叩かれた。大きな背嚢(はいのう)をぐっと押し付けられて、荷物の隙間から見ると神崎が今度は惜別に涙を流していた。 「伍長、お別れだ。君の失くしたものを、必ず取り戻すんだぞ。せっかく生きて帰ってきたのだ。無駄にするな」 「神崎さんも……」 「ああ」 「広島は、大変だと聞きます。もし、もし頼る先がなかったらここへ」 「……有難い。その時は必ずそうさせてもらう」 「ええ、必ず」  駅に降りる人はたくさんいたが、復員兵はどうやら自分だけのようだった。  この町からもたくさん若者が出征したはずだが、その人たちはどうしただろうか。一足先に帰っている者もいるだろうか。  ゆっくりと列車が動き出し、蒸気を逃がすためか、警笛がわんわんと二度鳴った。神崎は開け放った車窓に左腕を乗せていて、やがてこちらに手を振った。 「元気で」  神崎の言葉に、なぜかそうするのが一番しっくりくるような気がして、きっとこの先の生涯で二度とすることのない敬礼をした。列車が線路の先に小さくなって陽炎に消えるまでそうしていた。  いつの間にか駅には駅員を除いて誰もいなくなっていた。三十分に一本来るだけの次の列車を待つ人はまだいない。  足元におろしていた背嚢を背負い、駅舎に向かう途中、低いところを切り裂くように飛ぶ燕を見かけた。これから巣作りなのだろう。  季節はもうすぐ梅雨を迎える。駅の周りの田んぼはこれから田植えで、張られた水が鏡のように晩春の空を映していた。  頭上を、白い、真っ白な雲がゆっくりと流れていく。その光景を見上げていると、引き上げ船の中で見た海の上の雲を思い出した。  ずっとこのまま船に揺られていたい、とその時は思っていたが、その船の中で神崎と出会った。帰らねば、と神崎と話すたびに思うようになったのではなかっただろうか。  駅舎を出ると露店があって花を売っていた。そろそろ店じまいをするのだろう。老爺が緩慢に後片付けをしている。  そこへ声をかけて、残っている花を全部買うことにした。花は墓参用のもので、家に戻る前に墓参りをしようと思いついたのだ。墓には、先に戦争に行った父と叔父が入っている。  棚にあるうちはそれほどとも思わなかったが、束ねて渡されると両手いっぱい抱えるほどになった。こんな夕方に、復員兵が大きな背嚢を背負って、両手には墓参用の花を抱えているのは異様な光景だろう。  通り過ぎる町の人は不思議そうに視線を投げて来るが、幸いにも知り合いには行き会わなかった。  少しの居心地の悪さを感じながら足早に歩き、墓のある八幡山まであと少しのところで不意に呼び止められた。それは小さな声だったが、足を止めさせるのに十分な強さがあった。 「こうちゃん?」  聞き覚えのある声にそちらへ目をやると、小さな肩を震わせている女がいた。帰ってきた実感が、その時ようやく五体の隅々にまで伝わった。  失くした心は、神崎が言った通り、どうやら迷いながらもここへ帰ってきていたのだ。  ふと、女の名前を呼んだ。そしてそこへ歩み寄って、向き合ったまま、二人は陽が傾く中、舞鶴の港で見かけた多くの人たちと同じように、いつまでもすすり泣いたのだった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!