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 動かなくなった右手を眺めていると、リビングから雪乃の好物であるビーフシチューの香りが漂ってきた。お腹が減っていたわけではないけれど、好物の匂いはそれ自体が空腹を誘発する魔力を持っている。おまけに集中もすっかり切れてしまった。  雪乃はおとなしく鉛筆を置き、リビングへと向かおうと自室の扉を開けた――その時だった。  リビングから、優しくゆったりとしたピアノの旋律が流れてきたかと思うと、その旋律は見えない鎖となって雪乃の身体を縛り、気が付くと寒くもないのに鳥肌が立っている。  流麗な旋律の糸に引っ張られるように、雪乃はふらふらとリビングに入る。ピアノの旋律は、どうやらテレビから流れているらしい。 「雪乃、宿題はもう終わったのか?」  ダイニングテーブルでグラスとお酒を準備していたお父さんが訊ねる。が、雪乃の頭は言葉を解することを拒否しているようで、その問いかけはただのノイズとして処理された。ピアノの音に心を奪われていただけでなく、雪乃の目も耳も、画面の向こうの銀盤に咲く一輪の花に夢中になっていたからだ。 「ねぇ、お父さん……」雪乃はテレビを凝視したまま、「これってなに?」  お父さんは雪乃の視線を追い、テレビを一瞥する。 「ああ、二十年前くらいに録画したフィギュアスケートの世界選手権を久々に見てるんだよ。父さんこの大会を現地で観たくて足を運んだんだぞ。そんで――」 「あなた」話が熱を帯び始めたところで、お母さんが冷や水を浴びせるようにピシャリと呼びかけ、「口はいいから手を動かしくださいね。夕飯、もうすぐできるから」  そう咎めた。  完全に話の腰を折られたお父さんは、いじけたような表情で「はいよ」とだけ言うと、またテーブルの上を整えはじめた。櫻木家においてこんな場面は日常茶飯事で、雪乃は子どもながらに両親の力関係をそれとなく察していた。  雪乃は改めて、テレビに映る銀盤とその上で舞う可憐な少女を食い入るように観る。  ピアノの旋律と氷が削れる音とがデュエットを奏で、少女が滑った後は流星が夜の闇を切り裂くように、シューズのブレードが白銀の氷に(わだち)を残す。  水面に落ちた花が春の嵐を受けて踊るように、彼女の演技は花を思わせた。  氷の上で観衆の期待を養分にして咲き誇る一輪の花。その花がピアノの旋律に合わせてステップを踏み、勢いをつけてスピンするたびに、会場全体から拍手が沸き起こる。  気が付くと雪乃の身体に稲妻のような衝撃が走り、なぜか心臓は早鐘のように鳴っていた。堪えていないと涙までもが溢れ出そうだった。
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