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「逃げるのか? この会社から。多少辛いからって現実から逃げていると、今後の君の人生に絶対よくない。こちらに来なさい。私が社会というものを教えてやる――」
その時。
電話が鳴り響く。社長あての内線だ。
「……井ノ中。そこに待っていろ」
勢いをくじかれ、苦々しい顔をして社長が受話器を耳にあてる。
その瞬間、彼の表情が固まり――見る間に顔が青ざめ、視線が泳ぎ始めた。
「――はい。わかりました。はい。ええ、それでは失礼いたします」
受話器を置いた社長はじっと沈黙していた。先ほどまでの威勢がない。
小さな声でうめくように彼は言葉をつぶやいた。
「井ノ中、帰れ」
「えっ」
「いいから、帰りなさい。もう来なくてもいいから」
「え、えええ、え?」
突然の猫なで声。
「辞表を受け取っていただけるということでよろしいでしょうか」
「いいから。うん。君の気持ちはわかったから。……後の話し合いは、ちゃんと受けるから」
私はタイムカードをかしゃりと打刻する。
「お、お疲れさまでした……!」
深々と挨拶して、私は明るいうちに、会社を後にした。
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