第三章 リアーネ=リンカイン

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 時を戻し……。  突然乗り込んできてアルドベリクから状況を聞き出したライヴァンは間髪入れずに、 「リアーネはリンカイン王国へむかうはずだ」 と言い切った。 「なぜだ。あんな親のところにいくはずがないだろう」  ライヴァンは首を横に振った。 「あんな親だからだ。考えてもみろ、もしオプスクルドで消息不明にでもなれば、どんな因縁をつけてくるかわからない」  オプスクルドがリアーネを弑したのではないか、人質にしたのではないか等々、自分たちのことを棚に上げてこれ幸いと取引を持ち掛けてくるかもしれない。  最近のリンカインの財政はかなり厳しいと聞いている。 「彼女はああ見えて聡い。オプスクルドを窮地に陥れるようなことは決してしない」  自分の行方が不明な状態を選ぶわけがない。 だとすれば、自らの意思でリンカインに帰るのが唯一の出奔方法だとライヴァンは言った。 「では国境に連絡を」  アルドベリクが立ち上がろうとすると、ライヴァンはそれを止めた。 「だめだ。リンカインにつく前に連れ帰れば、彼女の意思を無視した誘拐の冤罪の恐れがある」  リアーネは自分の意思でここを出てしまった以上、一度はリンカインに帰らなければならないのだ。 「じゃあどうすればいいのだ」 「わたしが連れ戻す」 「え?無理矢理連れ戻したら誘拐なんだろう?」  ライヴァンは不敵に笑った。部屋の温度が二℃下がった。 「本人の意思があれば問題ない。なにリンカインの王族の前で、オプスクルドに帰りたいと本人に言わせるようにしむければいいだけだ」  ライヴァンはさっと身をひるがえし出ていこうとし、くるりと向きを変えて戻ってきた。  コーデォニアル宰相の前に立つと、 「父さん、持ち金を全部出してください」 と父親から有り金を巻き上げて部屋を出て行った。それからすぐ王宮から再び姿を消した。    ***  その頃、街道沿いの宿屋に腰を落ち着けていたリアーネは、記憶の中のシオンの笑顔をほんのりと思い浮かべていた。 (シオンはもうオプスクルドに戻っては来ないかもしれない)  そして、リアーネ自身もまたオプスクルドに戻るつもりはない。  その覚悟がようやく決まったのは、ライヴァンのおかげかもしれなかった。  リアーネがひそかに思いを寄せた人物は、いつもアルドベリク王子の横にいた。  決して優しくしてくれるような人ではなかった。いつだってリアーネに口うるさくお説教ばかりするひとだったけれど……それがうれしかったとライヴァンは気づいていただろうか。 『あなたは王女なのですから』 『我が国の賓客なのだから』  そう言われるたび、リアーネがどれだけうれしかったか。自分ですら実体を感じられないのに、ライヴァンだけが肯定してくれたような気持ちになったことを。  今朝いつものように朝食をすませたあと、リアーネと侍女のミーレンは使用人のお仕着せを身にまとった。手にはリンカイン王国の紋章の入った木箱を抱えて。  この木箱は、ライヴァンがいつもリアーネに贈り物をするときに使っていたものだ。  王城の出入り口となる跳ね橋に常駐する門番に、「王女のおつかいで荷物をだしにきたいのだけど」といい、紋章を見せるとすんなりと出ることができたのだった。あまりに簡単に抜け出すことができたので拍子抜けしたくらいだ。 (こんなことならもっと早く実行していればよかったかも)  それこそ、ライヴァンの結婚が決まったときに。そうすれば彼の婚礼姿に傷つくことも、子どもができたことも知らないままでいられた。 (なんにしろいざというときのために道順を調べておいてよかったわ。……旅の資金も潤沢だし)  オプスクルドの交通の便は、国道や私道の区別もついていて比較的いい。  基本的に遠方へ向かう街道は、隊商や軍隊が使うために路面状態もよく、馬車がすれ違えるほど広い。こうした道には野盗もでにくいし、獣に襲われることもまずないから、女性の旅路でも安心であることも確認済みである。  この国の移動手段は徒歩、馬車、動物への騎乗となる。  交通費はかかるが最速手段で移動できるのは騎乗だ。リアーネはお金を惜しまず騎手を雇った。  騎手に同乗させてもらえたおかげで、リンカインとの国境まではあとわずかというところまでだった。これなら明日は徒歩で向かっても夕方までに着けるだろう。 (さすがに国境まで着いちゃえば、あの父だって追い返したりはしない……はず)  そう信じるしかない。  そこまでの算段を思い描くと、やがて浮かんできたのはやはりオプスクルドのやさしい人たちのことだった。  リアーネの不在は、早くても夕方までは気がつかれない妙な自信がある。  とくにライヴァン不在の今ならば、……ほかにリアーネのことを気にかける者などいないから。 (とはいえ、さすがにアルお兄様には報告がいった頃よね。王都の石門を今日中に超えられたのは正解だったわ)  王都への出入り口は防衛のため数カ所に限られている。そこで待ち伏せされてしまえばすぐに連れ戻されてしまうが、逆に王都をでてしまいさえすれば、その先の足取りを追うのは困難になる。  けれどリアーネの行き先がどこであるかなど、すぐに見抜かれてしまうだろう。  ほかに行くところなんてないのだから。  貴人が泊まるような高級宿ではないが、雇った騎手の口利きで中流階級向けの街道沿いの宿屋をとることができたのも幸いだ。  昨日ライヴァンを追い出した後、湧き上がったのはもうここに居てはいけないという強い思いだった。夜中のうちにミーレンにだけは打ち明けた。  昼間の様子をはらはらと見守っていたミーレンは、リアーネの決意に反対はしなかったが、どこか固い表情で頷いた。  彼女はオプスクルドに来る際に父が持たせてくれた、唯一のリアーネのための存在。  身寄りのない孤児院育ちのあの子を、オプスクルドに置いてくるわけには行かなかったのは事実だけれど、道行きがひとりじゃないことがこんなに心強い。でも……。 「リアーネ様、お湯をいただいてきましたよ。ほこりを落としましょう」 「……ねぇミーレン。リンカインに着いたら、あなたは元いた孤児院か、修道院に行った方がいいわ」  お風呂代わりにお湯の入った盥を準備していた手を止めて、ミーレンがリアーネに視線を向けてきた。 「わたしにはあなたの待遇を保証してあげることはできないと思うの」  王女ではあるが、父の妃となった女が自分を忌むべきものとして扱うのはわかりきったことだった。ミーレンがどのような扱いを受けるのか、それが気がかりだ。  盥からゆらゆらとのぼる湯気がミーレンにまとわりついてぼやけた。  そうではなく涙がにじんでいるのだと気づいた頃、 「リアーネさまがそうしてほしいとおっしゃるのならそうします。 でも、できれば……わたしはリアーネ様の侍女でいたいのです。もしお邪魔でないのならお連れ下さいませんか」 と、ミーレンは真摯に言った。  なんてあらがいがたい申し出なのか。リアーネはうつむいた。  ミーレンはリアーネに近づくと、寝台に腰掛けた膝元にしゃがみ、見上げる。握りあわせた手をつつむようにして静かに言った。 「リアーネさまがライヴァン殿に想いを寄せているのは知っていました。その想いが破れて、いまはお辛いですよね。その上シオン王子まであんなことになって……」  リアーネは祖国にいても、オプスクルドにおいてもひとりぼっちだった。  もとより通じることのないのはわかりきっていたけれど、想い人は他の人と結婚してしまった。  ようやく手を取りかけた人の記憶の中からも、消えてしまった。  まるで、どこに居ることも許さないと言われているように。  いてもいなくてもいい存在なんだ、と。  口にはださなかった主人の心の痛みが、ミーレンには手に取るようにわかっていた。 「わたくしではだめですか。ずっとおそばにいさせてはもらえませんか」  リアーネの側にいたいと言ってくれる人がここにはいた。 「ミーレン……!」  リアーネはたまらずぎゅっと彼女に抱きついた。汗と埃の匂いのする肩口に顔を押しつけた瞬間、こらえきれない嗚咽がもれた。
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