第一章 シオン=イニス

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いつものガゼボにリアーネの姿があることにシオンは心からほっとした。  幾度か従者に持たせたご機嫌伺いの品は、リボンをほどかれることもなくシオンのもとへ返されていたが、シオンはどうしても彼女との交流をあきらめる気になれなかったのである。  わざと視界に入る位置を選んで近づいていくのに、彼女は手元から目を離さなかった。 (まだ怒っているらしいな)  とは思うものの悲観しているわけではない。  それほど長くリアーネの心に自分がとどまっていたことに、喜びすら覚えている自分がいる。  リアーネは前と同じように無心にレースを編んでいて、それは先日のものとは違う色の糸で編まれていたので、前とは別のものを作っているのだとわかった。 「リアーネ、この前は悪かった。許してくれないか」  シオンの呼びかけにもリアーネは答えなかった。かぎ針も狂いなく同じリズムで動き続けている。  シオンは我慢強く、沈黙に耐えた。彼女が意地を張っているのだと思っていたのだ。  許しを請いつづけていたシオンが、このガゼボに再び来るだろうことは明らかで、それでも彼女がここにいるのはシオンを許すつもりがあるからだと。  しかし、シオンがリアーネを警戒させないよう少し離れた位置に座ってしばらくたってもなんの反応もみせず、しびれをきらしてさらに距離をつめたことにも反応しないことで、やっと理解した。 (ぼくがいることに気づいていないのか)  思い切り下手(したて)に出て、どんな言葉も甘んじて受けて、そうしてでもリアーネと会いたいと願っていたシオンは傷ついた。 (どうしてこんなにも焦がれるのだろう)  自分はリアーネにとってのたったひとりになりたいと願っている。 (どうしたらぼくに気づいてくれる)  いっそこの前の冗談を本当にしてしまおうかとさえ思った。  でもできない。そうすれば今度こそ失われる。  国を失うことは受け入れたというのに、リアーネに拒絶されることだけは耐えられそうになかった。  シオンの状態をいうのなら、途方にくれたの一言に尽きた。  結局リアーネがシオンに気づいたのは、ずいぶんと日が傾いて手元が見えにくくなった頃だった。  雨に濡れた子犬のようにしょぼくれたシオンに気づいたリアーネは、驚いた様子で、薄着で冷え切ったシオンに自分のひざ掛けをかぶせて使用人を呼んできてくれた。  そしてその晩シオンは熱を出したのであった。  リアーネは幾分か罪悪感のようなものをいだいたらしい。  熱が下がりかけたころ見舞いと称してシオンの館にやってきた。  寝台の住人となっていた身体を起こし、バレスに着替えを手伝ってもらう。  髪は乱れてないだろうか、汗臭くないか、と気にしながら、 「ぼくが行くまで引き留めておけよ」 と侍女に言いつけていると、バレスがやれやれといった顔をした。  みっともなくない程度にみなりを整えたシオンだが、ガウンだけは羽織らされてしまった。野暮ったくて不満だったけれど、ここで押し問答している時間すら惜しい。結局はそのまま部屋に向かった。  客用のこの館には応接用の部屋もある。  ソファに腰掛けていたリアーネは、シオンが入室するとさっと立ち上がり、寝台からそのままとびだしてきたようなシオンの姿にびっくりした顔をして、その後しかめっ面になった。  そんな顔さえ、今のシオンにはうれしかった。  無視されるよりずっといい。それに、目立つことはしないと言っていたのに、会いに来てくれたことにシオンは震えるような喜びを感じているのだった。 「見舞いの品だけ届けられればよかったのよ。それなのに」 「顔が見たかった」  シオンは自分がこんなに我慢のきかない性格だとは思ってもみなかった。  リアーネは思い切り不本意そうな顔である。 「起き上がって大丈夫なの?倒れたりしないわよね?」 「少し寒気はするけど平気だよ。どうしても会いたかったんだ」  早口にそういうと、リアーネの顔にさっと赤みがさした。照れている様子がかわいい。 「まだ寝ていた方がいいんじゃないの?」 「だって寝室に来てなんて言ったら、あんた帰っちゃうだろう」  あんたと呼ばれたことに加え、その発言内容にリアーネはぎょっとした顔をしている。 (まずい。熱で少し自制がきかないみたいだ)  ここ数日で自覚した想いが、出口を求めてぐるぐると体の中にうずまいているようだった。  リアーネはばっと勢いよく立ち上がると、扉へと向かった。  今度ぎょっとしたのはシオンだ。 (帰ってしまう)  しかしリアーネは出ていこうとしたのではなかった。  開け放たれていた扉をばたんと勢いよく閉めると、同じような勢いでシオンのもとへとって返してきた。 「君はなにを……」 とぼうぜんとする。 「寒いのに開けっ放しにしているからよ!」 「いやだって……未婚の男女が同室の場合、締め切るのはよくないだろう」 「あのね!あんな恥ずかしいこと言って廊下に筒抜けになってるなら同じよ!」  腰に手を当てて仁王立ちになったリアーネの剣幕に、シオンは思わず笑いだした。 「あはははは」  突然笑い出したシオンにリアーネは呆気にとられた。  おそるおそるといったふうに聞いた。 「シオン、あなた本当にだいじょうぶ?」 「うん、もうだめみたいだ」  シオンは熱と笑いすぎで削られた体力を総動員して、リアーネの前へとゆっくり歩いて行った。 「シオン?」  今度のリアーネは心配するような声だったから、シオンの心は凪いでゆく。  シオンより少し低い位置にあるリアーネの唇にそっと人差し指を押し当てる。生あたたかい呼気を感じた。  指を離したあと、そのまま自分の唇に押し当てる。  リアーネが呆然としていると、いつの間にかシオンの寝汗でしっとりした頭のつむじが低い位置に見えた。 「好きだ」  ひざまづいて、シオンはリアーネに愛を告げた。    ***   意外にもそれからのふたりの時間はおだやかに過ぎていった。  皮肉にも氷の貴公子にくぎを刺されたことで、シオンは自分の気持ちに名前を付けて保存してしまったのだ。  口にしたことで、リアーネへの感情は今までのような波のあるものではなく、むしろゆるやかになった。  シオンは、リアーネに好きな人がいることを知っていても、心をあばくような言動は決してしなかった。  隠している恋を知っているのが自分だけだからこそ、彼女の居場所になれることを知っていた。それでいい。いまは。  たとえ第三者からは同じような境遇のもの同士がもたれあっているかのような関係に見えたとしても。  これは期間限定のおままごとのような恋人ごっこだ。  シオンはそのことに気がついてはいたが、あえて触れずにいる。終わりが来ることを、リアーネはまだ知らない。告白への返事はなかったが、それでよかったのかもしれない。  ただ、あれ以来リアーネはシオンに対して気負わなくなったと思う。 こうしてガゼボで会って、一生に過ごすだけの時間が、当たり前のようになったころ、シオンはリアーネに、 「ぼくにも何か作って」 と強請(ねだ)った。  彼女の手は魔法のようにすいすいと、たやすくレースを生みだす。集中しているときのリアーネは本当に美しいとシオンは思う。 (怒られるから言わないけど、どっかの誰かさんが『レースでも編んでればいい』と言いたくなるのわかるよな)  退屈は誰でも嫌うものだが、リアーネを心置きなく見ていられるこの時間がシオンは好きだった。  たとえば彼女が自分のために編んでくれているならどんなに幸せだろうと、想像してしまった次の瞬間にはもう言葉にしていた。  リアーネはあっさりと、 「いいわよ」 といったので、 「罪作りな」 というと、怪訝そうな顔をしていた。  あとで従者のバルスが「恋する男はてんでバカですね」と、主人に対してあるまじきことを言ったが、それも許せるぐらいシオンは浮かれた。 「せっかくだから少し凝った意匠にしたいわよねえ」 「リアーネの作るものならなんだってうれしいよ」  我ながらなんて歯の浮くセリフだ。  どこかの国のほほ笑み王子がいかにもいいそうで、体がかゆくなりそうだ。 「別に張り切ってるわけじゃないわ!シオンにあげるものなら少しくらい失敗してもいいと思っただけよ」  照れたあげくの憎まれ口すらかわいいのだからもう重症というほかない。いまならバレスの『てんでバカ』にもろ手を挙げて賛成だ。自分のことでなければよかったのだが。  けれど、そんな日々が終わる日は唐突にやってきた。  その日、リアーネが図書室で参考になるものを探したいといっていたので、シオンは久しぶりに乗馬に行くことにした。  本当はリアーネと一緒に行きたかった。彼女が自分のために悩んでくれるなんて……ぜひ見たい。  ところがリアーネは、 「完成するまでシオンには見せない」 と拒否した。  すごくがっかりしたが、そのあとに小さく、 「びっくりさせたいじゃない」 とは。  どこまでシオンを仕留めにくるつもりなのか。この無意識のあおりは卑怯だ。  とにかくその日上機嫌で馬場で騎乗していたシオンは、氷の貴公子と一緒に木の下でリアーネのあられもない姿を目撃しかけた騎士から知りたくもない事実を知ってしまったのである。  すでにリアーネとシオンが親しいことは、王族のあたりの知るところとなっていたらしく、ライヴァンの下で働くその騎士も耳にしていたようだ。自然と話題はリアーネへと向いた。  好きな女の子の話を誰かにできることが、シオンには新鮮で楽しい。  初めて話す相手だというのに、馬場という解放感も手伝って思いのほか会話が続いた。  騎士はそんな彼を微笑ましく思ったらしく、自分の知っているリアーネの動向を惜しげもなく話してくれた。  リアーネ王女がアルドベリク王子の結婚祝いに、すばらしく手の込んだタペストリーを贈ったこと。  それはシャルロッテ王女のお茶会の翌日に届けられたのだと言った。  ではシオンが熱を出すきっかけとなったあの日に、ガゼボで彼女が彼を放置して夢中で編んでいたのは結婚祝いではなかったのだ。  てっきり片思いの王子への贈り物だと思っていた。 (なんだ。違ったのか) 「確かに結婚祝いにしてはやけに暗い色を使ってるなとは思ってたんだ」 「殿下に贈られたのは純白のものでしたよ。確かに結婚祝いなら白が一般的ですが、よっぽど腹黒い相手に送るつもりだったんじゃないですか? ーーーほら、ライヴァン殿も結婚されるし」  これは言わないでくださいね、といった後、騎士は馬を早足にさせてシオンを抜き去っていった。  ……馬上でみるみる心が冷えていくのを感じた。  そんなことあるはずないだろう。  だってリアーネはあんなに悪口ばかり言っていたじゃないか。  あいつの話ばかり……。  アルドベリクの名が出るとき、リアーネはいつも嬉しそうに話していた。リアーネが感情をむき出しにののしるのは、いつだってアイツのことだけだ。ひどい仕打ちをした祖国の話をするときだってあんな顔しないのに。  シオンがいつも苛立ちを感じるのはリアーネが氷の貴公子の話をする時ではなかっただろうか。 (あ……リアーネ……きみが好きなのは……)  そう思った次の瞬間、並走していたバレスの声がやけに遠くに聞こえた。 「シオン殿下!」  目の前に乗馬の障害物が迫っていた。    ***  レース編みの参考になる資料を借りるために王宮内の図書室へ足を向けたリアーネは、その帰り道で彼に気づいた。  その時のライヴァンはめずらしく一人で、いつもの側近姿ではなく、国王に謁見する際の正式な衣装を着ていた。  リアーネは歩みを止め、ライヴァンが通り過ぎるのを待った。  ライヴァンはとっくにリアーネに気づいていたようで、足を止めると苦笑した。 「わたしにまで礼をとる必要はありませんよ」 (そのまま通り過ぎてくれればいいのに)  絶対に顔をあげるものか。  早く立ち去ってほしくて、リアーネは無言で顔を伏せ続けた。なのに視界に入るライヴァンの足は動こうとしない。 「ずいぶんとシオン殿下と仲がよろしいのですね」  話しかけられてしまったので、仕方なく少し視線をあげると、ライヴァンの正装姿が嫌でも目に入ってくる。 「あなたには関係ないでしょう」  自分の声が震えるのがわかった。 「好きなのですか」  リアーネは顔がこわばるのを止められなかった。 「それも関係ないわっ」 「ではご忠告ということで。……あなたが想う人と結ばれることはありませんよ」 「そんなことわかってるわよ!」  ぐっとライヴァンの顔を見上げたリアーネは瞬時に後悔した。  目にしてしまったライヴァンの全身が目に焼き付いてしまって。 (どうしてよりによって……会ってしまうの) 「どうしてあなたはこんな日にまで意地悪をいうのよ……」  リアーネはあっというまに充血していく目で、精いっぱいライヴァンをにらみつけた。  ライヴァンがはじめてリアーネの言葉に怯(ひる)んだように見えた。常にないことに、彼は動揺していた。 「シルヴィ様?」  それが引き金となった。 「わたしはシルヴィじゃない!お母さまの名前で呼ばないで!」  ドレスの裾をぐいっと持ち上げ走り去るリアーネをライヴァンはただ茫然と見送っていた。    ***  部屋に駆け込んできたリアーネに、ひとかかえはある箱を手にしたたミーレンは、思わず落としそうになってしまった。 「リアーネさま?どうされましたか」  あわてて荷物を置いて駆け寄ると、リアーネが勢いよく抱きついてきた。  とり乱した王女の姿にミーレンもどうしていいかわからない。  おろおろと周りを見回すが、あいにくミーレンの手助けになるような存在はなく、それよりもこんなとり乱した姿をほかの人間にさらしてはいけないと判断をくだす。 「リアーネさま、こちらへ」  ソファに座らせ、部屋の扉をきっちり閉める。こうしておけばノックもなく入ってくるものはいない。  リアーネが図書室から帰るころあいを見越して用意していた茶器が目に入って、ようやくミーレンはすべきことを見つけた。  リアーネが一番好んでいる茶葉を蒸らす。いつもの香りが充満することで、しゃくりあげていたリアーネの様子が落ち着いてきたのを確認する。  ミーレンにしても日常の動作をすることで心を落ち着けることができた。  きっちり砂時計が落ちるまで蒸らし切って、ミーレンはポットとカップを乗せたトレイをリアーネのもとへと運んだ。  リアーネのぼんやりとした視線が、先ほどまでミーレンが手にしていた箱でとまっていた。 「たった今リンカインの王様から届いたのです。そろそろ少なくなっていましたからいつもながらいいタイミングでしたわ」  少しでもリアーネのなぐさめになってほしい。気を引き立ててあげたかった。  けれど。 「リンカインからじゃないわよ」  リアーネは皮肉げな笑みをみせた。  お父様がわたしの必要なもの、わかるわけないじゃない。  リアーネは手を伸ばし乱暴に箱のふたをとって床へと放った。  箱の中に入っているのは、色とりどりの糸だった。中には一見してシルクとわかる上品なものも入っている。 『レース編みを好んでいるとお伝えしたら送られてきました』と、最初にこの箱を持ってきたのはだれ? 『おとなしく編みものでもしてくれてれば安心』と皮肉るのはだれ。  偽りの贈り物を続けてきたのが、あの冷たい目をした側近であることなど、少し考えればすぐにわかる。  どうせ見え透いた嘘ならもう少し優しくすればいいのに、それをしない。おかげでお礼すら言えずにいるリアーネのことなんて考えもせずに。  あの人の冷たい言葉はいつだってリアーネを泣きたくさせる。  あの人はいつだってアルドベリク王子のためにしか動かない。 「ばかだわ。結婚する日にまで」 (最低な気分……。おめでとうさえ言えなかったじゃない)  心からそう思えなくても、伝えようと思っていたのに。  窓際の書き物机の上に置かれたかごの中には花婿用のチーフが入っていた。夜の闇を思わせるシルクのチーフに同じ色のレースを重ねたもの。  これを渡して『おめでとう』と心にも思っていない言葉とともに渡そうと思っていた。  純白の花嫁の横に立つあの人のポケットに、自分の色のチーフをしのばせてやりたかった。  ……そうして恋心を葬りさりたかった。 (ばかばかばかばか)  リアーネの頭の中でいくつもの言葉が再生されては消えてゆく。 『好きなのですか』 (そうよ) 『あなたが想う人と結ばれることはありませんよ』 (そんなの知ってる)  今までの中で一番きつい皮肉だった  不意にノック音が響く。いぶかしげにリアーネを見守っていたミーレンが扉を開けに向かった。  二言三言かわしたミーレンが、扉を開けたままリアーネのもとに戻ってくる。その顔はひどく青ざめていた。 「どうしたの……」 「シオン殿下が落馬して意識がないそうです」  視界がぐらりと揺れて、世界に闇がふりそそいでいく音がした。
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