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リアーネがオプスクルドに来た頃、ライヴァンは十一才、アルドベリクは九歳だった。
世継ぎの王太子付の側近となるべく教育を受けていたライヴァンは、そのころから常にアルドベリクとともにあった。だから兄のようにアルドベリクを慕うリアーネとも、よく顔を合わせた。
幼いリアーネは当時から大変愛らしかった。
王によると「目と髪以外シルヴィの小さいころそっくりだ」ということだったが、
(目と髪の色が違えばそっくりもなにもないだろう、つまり単にかわいいだけじゃないか)
とあきれた。
事実、身内のひいき目を差し引いてもリアーネは愛らしく、父親から見捨てられたも同然にかかわらず、子猫のように懐いた。
大好きなアルドベリクといつも一緒にいるライヴァンにもなんのてらいもなくその笑顔を向けた。
こんな小さい生き物、触っていいのか?ととまどうライヴァンの手を握って、
「冷たいお手てね」
とびっくりしたあと、懸命にごしごしこすりだした。
あたためてくれようとしてくれているのはわかったが、摩擦で痛い。アッと今に赤くなった手を見て、
「よかったね」
と笑った。
それ以来リアーネは会うたび、ライヴァンに、「冷たくない?」と聞いた。
はじめてその光景をみるものは、「ライヴァンは氷みたいなのよ」というリアーネの説明を受けて、なぜかみな一様に納得した。
これが『氷の貴公子』の由来であったことを、リアーネはすっかり忘れている。
シルヴァン王女の愛称だったシルヴィと最初に呼んだのは王であった。
リアーネの滞在がこれほど長くなるとはだれも思わなかった。
いずれはリンカインに呼び戻されるのだと。
だから身分を隠すために、彼女はシルヴィと呼ばれたのである。それはオプスクルドでは親しまれた名前だったから。
しかしシャルロッテ王女が誕生したことが、転換期になった。
リアーネの可愛さにあてられた王が娘欲しさに張りきったのであろうと、父である宰相はこき下ろした。現国王と宰相もなかなかに信頼の厚い関係である。
直系の王女と他国の王女を同列に扱うことはできない。
結局のところリアーネは立場を明確にし、王族と切り離さなければならなくなった。
五歳たらずの王女に『遊学』という理由をつけ、賓客用の館に留め置いた。
護衛くらいはつけてやりたかったが、他国の客に対して衛兵士をつければ監視しているともいいかねない相手だ。
本来ならリンカイン王自身がオプスクルド王に、護衛騎士をつける許可を得るのが筋である。
申し出があればオプスクルド王としても拒むことはなかったはずだが、何年たってもリンカインからの申し入れはない。それどころか侍女の増員すら渋る始末だ。
遊学の理由を盾に、教育係はつけて養育に当たったが、それが限度。
ついぞリアーネに貴婦人になるべくふさわしい教育を受けさせることだけはおろそかになってしまった。
十六にもなれば、結婚の打診がきてもおかしくない。事実シャルロッテは九歳の身の上で婚約者持ちだ。
このままでいけばリアーネはこの国で結婚適齢期を迎えることになる。
が、リンカインから王女に対して今後にかかわる話がなされる気配はない。他国の王女に対してオプスクルドでどうこうできる話でもない。
一方でライヴァンには、口にできない想いがある。。
(あの子がほかの男の手をとり温めるのを、あの笑顔を惜しみなくほかの男に向けるのをこの目で見たくない)
それなのにリアーネはイニス国の王子にその位置をあっさり許した。
(彼女が心を許せる居場所などなくなってしまえばいい)
ライヴァンの薄暗い願望は現実になろうとしている。
***
自宅へ帰るとエネリーが出迎えてくれた。ガウン姿なのはついさきほどまで横になっていたからだろう。
「無理をせずとも休んでいてかまわないのだが」
そっけないライヴァンの言葉が自分を気遣ってのことだと知っているエネリーは、ふふと笑いながらライヴァンの外出着に手を伸ばした。脱げということらしい。
溜息を吐いてエネリーのさせたいようにすると、エネリーはその後も笑いながら部屋までついてきた。
「なにがそんなに楽しいんだ」
「だってあなたってばホントに見た目がいいんだもの。幼馴染としては氷の貴公子なんて聞くたびに笑っちゃうけど。……ああ、その目!ほんとに氷ができそう」
ライヴァンはむっとしてエネリーをにらむ。
「君の好みはおだやかで頭の中がぽかぽかの男じゃないのか」
エネリーは大笑いした。まったく自分の周りには淑女らしからぬ女ばかりだ。
「頭の中ぽかぽか!ふふ……ぽかぽかって!」
ライヴァンはもう放っておくことにした。
着替えるのはあきらめてソファに腰を落とすと、ようやくエネリーは笑うのをやめてライヴァンの向かい側に座った。
「もう一度言っておきたいの。わたしのわがままにつき合わせてごめんなさい。普通じゃないわよね、こんなの。実は少し後悔してるの。ライをまきこんだこと」
「何をいまさら。私と結婚したいといったのは君じゃないか」
エネリーは今度はさみしそうに笑った。同じような表情を自分の主もしていたとライヴァンは思う。
「だってアルが他の人と結婚するのを、近くで見てるのが嫌だったんだもの。シャルロッテ王女の教育係をやめるには結婚を理由にするのが無難だし、彼以外好きになれないってわかってるのにほかの人と結婚するなんて失礼じゃない」
上級貴族の令嬢であるエネリーが政略結婚の意義を失礼の一言で言い切るのがライヴァンには理解できない。
「その失礼なことを私に対してしている自覚は」
「だから謝ってるのに……」
だが結局のところエネリーの求婚を利用したのはライヴァンも一緒で、王太子の結婚と同時に世代交代が見えてきた自らも伴侶を得る必要があった。
愛のない結婚はいやだなんて言うつもりもなかったし、もっと言えば仕事に支障がなければ相手はだれでもよかった。むしろ自分に愛情を求めているわけではないエネリーは、仕事を優先したいライヴァンにとってはある意味理想的と言えた。
そして、どんなにアルドベリクが望もうと、彼の求婚を受け入れることのできない事情がエネリーにはあった。
……アルドベリクとエネリーがどのような経緯で想いを交わしたのかも、別れを決めたのかもライヴァンは知らない。
ただアルドベリクはエネリーとライヴァンの結婚の報告にだまって頷いた。
神妙に運命を受け入れたのかと思いきや、よりによって挙式直前に「できちゃった」と言われ泡を食った自分をこのバカップルはなんと思ってるのか。
子どもを産まなくてもいい条件で結婚の承諾を得たのに、とエネリーの両親にはこの件でひどく恨まれている。しかも結婚まで我慢の聞かなかった男という色眼鏡で見られてしまった。
我慢できなかったのは自国の王子の方で、側近の妻になる女性に手をつけましたなどと真実をぶちまけるわけにもいかず、ライヴァンは事実を隠蔽することを自ら二人に進言したのだ。
「ごめんなさい、ライ」
出産に耐えられる身体ではない。それがエネリーのかかえる事情だ。
世継ぎが産めないのに王太子妃など、なれるはずもないからと別れを決めたはずだ。なのにエネリーは、命がけでも愛する男の子どもを産む道を選んでしまった。
『わがままなのはわかってるの。だってわたしはこの子を産むことはできても、きっと育てられない。世間的にはあなたの子どもとされてしまう。
それでも、あの人の代わりに堂々と愛せる存在が必要なの』
口にはしなかったが、死ぬことすらエネリーの望みなのかもしれない、とライヴァンは考えている。近くに居なくたって、アルドベリクの動向はいやでも耳に入るのだから。結婚、世継ぎの誕生……そのたびに平気な顔をして祝福しければならない。
「わたしが死んだら実家に育ててもらえるように頼むわ」
エネリーはすでに母親の顔をして、目立たないお腹のふくらみを愛し気にさすった。
「だめだ。その子はよそへはやらない」
エネリーはライヴァンを見た。そこにおびえの色をみてとったライヴァンは深く息を吐いて告げる。
「わたしの手元にいれば会わせてやることぐらいできる」
立場上触れあうわけにはいかないだろうが。うまくすれば、側近や宮廷の教育係に押し込めるくらいには盤石な家柄だから。
エネリーは泣き笑いの、子どものような顔で笑った。
「……できるだけでいいから、体を大事にしろ」
「ライ、ありがとう」
エネリーは初めて『ごめんなさい』以外の言葉をライヴァンに伝えた。
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