プロローグ

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 その日の夜。  俺はキッチンダイニングで、家族と食卓を囲んでいた。  飲食店でパートをしている母さんと違って、正社員で働いている父さんは残業で帰りが遅くなることも多いけど、今日は珍しく帰りが早くて、久し振りに家族四人揃っての夕飯だ。  明るい茶色の食器棚やキッチンラックに囲まれたキッチンダイニングの真ん中には、白いテーブル。その上には、人数分のご飯に冷しゃぶサラダ、酸辣湯(サンラータン)が並んでいた。  酸辣湯は熱いし、辛いし、汗がどっと噴き出てくるけど、暑いからって冷たい物ばかり食べるのは良くないからと、母さんは夏でも時々こんな風に熱い物を出してくる。  このキッチンダイニングにはエアコンが付いていないのに。  エアコンがある隣のリビングの冷えた空気をサーキュレーターでキッチンダイニングに送って、テーブル脇に扇風機を置いてもいるけど、火を使うキッチンダイニングはどうしても暑くなりがちだ。  冷え性の母さんと姉さんがいるから、エアコンの設定温度はあまり下げられないし。    俺はこめかみを伝い落ちてきた汗を拭いながら麦茶を一口飲むと、思い切って切り出した。 「あのさ、俺自転車で愛知のおばあちゃん家に行こうと思ってるんだけど」 「急にどうしたの?」  母さんは箸でご飯を摘まみながら意外そうに、だけど少しだけほっとしたような顔で訊いてきた。  最近会話らしい会話がほとんどなかったからだろう。    俺の斜め向かいに座った母さんは、確か今年四十八歳で、どこにでもいる生活に疲れたおばさんといった感じだった。  年の割には肌に艶がある気がするけど、肩に付かない長さで切り揃えた癖の強い髪には年々白い物が増えていて、もう半分近くが白髪に見える。  ふっくらしたお腹を隠すために、いつもフレアスカートを履いてはいても、正直言って全く誤魔化せてはいなかった。  そしてそんな母さんの隣に座っている父さんも、母さん程ではないにしろ、中年らしくTシャツがパツパツになるくらいお腹が出ている。  髪は割とふさふさしているけど、母さんより五歳年上だけあって、白髪の数は母さんよりも多く、その頭はもう黒と言うより灰色に近い色だった。  銀縁眼鏡の奥にある顔は、自分が似ていると認めることに抵抗を感じるくらい印象が薄いそれで、年相応の深い皺が目立つ。  俺は向かいの席でビールを飲む父さんから視線を外すと、テーブルの上の皿に視線を落として言った。 「『自分探し』に行きたいんだ」 「そうか……ばあちゃんは喜ぶだろうけど、自転車で行くにはちょっと遠いな」  思案顔になる父さんの横で、母さんが表情と口調を険しくした。 「自転車で一人旅なんて駄目よ! 途中で事故や事件に巻き込まれるかも知れないし、第一泊まる所はどうするの!? 高校生を一人で泊めてくれる所なんて、ほとんどないわよ!」 「だったら、テントで野宿でもするよ。その方が金もかからないし」 「そういう問題じゃないでしょ! 駄目よ! 野宿なんて絶対駄目!」  母さんはますます目を吊り上げて語気を強めると、同意を求めるように姉さんに顔を向けた。  母さんが何か言う前に、姉さんが俺を一瞥する。  姉さんは母さんに似て地味な顔立ちだけど、決して不細工ではないと思う。  でも後ろで一つにまとめた髪が母さん譲りの天然パーマの髪なのも手伝って、とにかく垢抜けない印象だった。  体型はほっそりしていないけど、父さん達みたいに明らかに太っている訳でもないし、案外磨けば光るタイプなのかも知れない。  姉さんはすぐに俺から視線を逸らすと、豚肉を噛み砕きながら、気のない口調で言った。 「行きたいって言ってるんだから、行かせてあげれば?」  俺の決意を後押ししてくれたんだから、本当は感謝すべきところなんだろう。  でもさっきの姉さんの言葉は、きっと俺のことを思いやっている訳ではなく、俺が旅行に行けばほんの一時だけでも俺を厄介払いできるからに違いない。  元々それ程仲がいい訳でもなかったけど、俺が不登校になってからますます態度が冷たくなったことを思うと、善意の言葉の筈がなかった。  だんだん腹が立ってきた俺が口を開きかけた時、父さんが訊いてくる。 「もし旅の途中で何かトラブルがあっても、すぐに駆け付けて助けてはやれないし、自分でどうにか切り抜けないといけないぞ? できるか?」 「うん」  俺は小さく頷いた。  実際どんなトラブルがあるかなんてわからないけど、もう高校生だから、ある程度のことは何とかなるだろう。  父さんは俺の返事に満足したみたいで、一つ頷いてから言った。 「じゃあ、明日は休みだし、自転車買いに行くか。長い距離を走るなら、ちゃんとした自転車の方がいいだろ」  行かせてくれるんだとわかって、俺は嬉しくなったけど、母さんは相変わらず尖った声で言った。 「ちょっとお父さん! いくら男の子でも一人旅なんて危ないんだから、そこはちゃんと言って聞かせてくれないと! お父さんは心配じゃないの!?」 「心配は心配だよ。でも、このまま家にずっといることがいいこととも思えないし、せっかく自分から外に出て行こうとしてるんだから、思う通りにやらせてみるのもいいと思うんだ。もしかしたら旅の間に考え方が変わって、また学校に行けるようになるかも知れないし」  父さんも母さんも、俺が不登校になってから学校のことは何も言わなかったから、俺を学校に行かせることはあきらめたのかと思っていたけど、どうやらそうでもなかったらしい。  まあ、「学校なんて行かなくていい」なんて思う親は少数派だろうし、多分きつく言っても逆効果にしかならないと踏んで、俺の気が変わるのを待っていたんだろう。  今のところ、学校に行くつもりはなかったけど、俺は敢えて黙っていた。  勝手に期待してもらった方が、いろいろと都合が良さそうだ。    思った通り、「また学校に行けるかも知れない」という父さんの一言は母さんの心を大きく揺さぶったらしく、母さんは少し迷いのある口調で、歯切れ悪く言った。 「お父さんがそう言うなら……」  こうして俺は、愛知のおばあちゃん家まで一人旅に出ることになった。
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