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旅、一日目
それから俺は自転車専門店に父さんと自転車を買いに行ったり、インターネットで自転車旅行に必要な物を調べて買い揃えたりして、一週間余りを過ごした。
初めての自転車旅行はとても楽しみだったけど、不安でもある。
中学で入っていた部は文科系の部で幽霊部員、高校に入ってからはずっと家にいた俺に、ちゃんとやり遂げられるだろうか。
結局辿り着けなかったら、ただ嫌な思いをするために旅行に出たようなものだろう。
それは絶対に嫌だけど、行くのをやめる気にはなれなかった。
とにかくほんの少しの間だけでも家を出たいし、無理のないペースで進んで行けば、時間がかかっても何とか辿り着けるだろう。
旅立ちは自転車が納車された翌日の朝早く――八月の初旬の日に決めた。
俺は水で濡らしたタオルを首に掛けて野球帽を被ると、荷物をこれでもかと詰め込んだ大きなリュックを背負う。
そうしてサイクルボトルを手に、玄関のドアを開けた。
何気なく見上げた空は、俺の名前と同じように雲一つなく晴れ渡っていて、太陽は力強く微笑みかけるみたいに、燦々と輝いている。
まだ朝早いから、空気はひんやりしていたけど、直に暑くなるだろう。
朝の七時に住宅街を歩いている人はほとんどいなくて、時々車が通る音の他には、鳥と蝉の声くらいしか聞こえなかった。
上げていた視線を戻すと、玄関脇には取り付けるタイプのスタンドに支えられた黒い自転車が立っている。
父さんが買ってくれたのは、ロードバイクという速く走ることに特化した自転車だ。
所謂ママチャリとは違って、ハンドルはドロップハンドルという湾曲したハンドルだし、サドルの位置も高い。
お店の人が「初心者のロードバイクの素材は、アルミ製かクロモリ製がいい」と教えてくれて、俺はアルミ製のロードバイクを選んだ。
クロモリ製の方が乗り心地はいいらしいけど、アルミはクロモリより軽くて錆び難いそうだから、旅には向いているだろう。
その自転車の後輪には、テントが積んであった。
特に決まった予定を立てずに、あちこち観光しながら旅をするつもりだから、父さん達がホテルの予約を入れるのも難しいし、母さんが野宿を許してくれたのだ。
テントで野宿なんて初めてだから、ちょっとわくわくする。
俺はボトルケージにサイクルボトルを置いてから、チェーンとスタンドを外した。
スタンドをリュックのポケットにしまい、自転車を押して門を出ると、私道の坂を下り始める。
姉さんが家から出てくることはなかったものの、父さんと母さんは揃って坂を下りて、俺を見送りに来てくれた。
今まで父さん達に愛されている実感なんてほとんどなかったけど、こうやって俺の我儘を聞いてくれて、お金もたくさん使って送り出してもらったし、やっぱり大事にされているんだなと思う。
俺は大した理由もなく学校に行かなくなって、きっと父さん達に随分心配を掛けたのに。
でも素直に「ありがとう」なんて言えなくて、俺は自転車に跨って言った。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「気を付けてな」
「もしもう無理だと思ったら、いつでも帰って来ていいからね。毎日ちゃんと連絡するのよ」
口々に言う父さんと母さんに、俺は小さく頷いて見せた。
父さんと母さんが俺を自転車旅行に行かせるに当たって出してきた条件が、「毎日必ず家に連絡すること」だ。
ちょっと煩わしいけど、父さん達が心配するのもわかるし、この程度なら我慢できる。
胸の奥に蟠る不安は消せないままだったけど、しばらく窮屈な思いをしなくて済むと思うと、何とも言いようのない開放感があった。
「行って来ます」
俺はペダルを踏み込んだ。
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