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憧れの人
「ありがとうございました」
何も買わず出て行くお客さんにとりあえず声をかけた。
私、佐伯 花音は、成瀬書店という、いつ潰れてもおかしくはない古本屋でアルバイトをしている。
四年制大学を卒業後、就職先も決まっていたが上京し、現在音楽の専門学校へ再度通学をしている。
どうしても歌手になりたいという夢を捨てきれなかった。もちろん親には猛反対をされ、半ば勘当されたような形で、実家を出てきた。
それでも夢を諦められなかった。
私には、歌手を目指すようになったきっかけの大好きな男性アーティストがいる。
名前は「湊 」さん。
彼の全てに影響を受けた。
作詞・作曲も一人でこなしているというから、それを聞いた時は感銘を受けた。
人の心を惹きつけるような歌い方と歌唱力。彼の歌を聴いていると、歌詞に込められた想いが伝わってくる。
ただ、彼の詳しい素性は明らかになっていない。唯一わかっていることは、大手の事務所に所属しており、ソロで「湊」という名前で活動をしているということだけ。
年齢や出身地などの詳細なプロフィールも公表されていない。ほとんどテレビにも出ないのだ。
音楽雑誌では時折彼について特集されることがあり、私はそれを楽しみにしている。インタビューのような形で特集を組まれることが多い。
彼のビジュアルは個性的だ。金髪の長い髪、切れ長の目、肌の色は白く、綺麗な顔立ちをしている。
雑誌の中の彼の言葉遣いにも惹かれた。あんなに売れているアーティストなのに、高飛車な感じではなく、腰が低い様子が伝わってくる。見た目とは違う、そんな彼の素朴な感じも好きだった。
私は金銭的に余裕がなく、彼のファンクラブに入ることができていない。そのため、すぐに売り切れてしまう彼のライブには一度も行けていないのだ。
私がいつか歌手になって同じ舞台に立てた時、一言「ありがとうございます」とお礼を伝えたい。
が、現実はそんなにうまくいかない。
私の年齢はもう二十三歳。
専門学校では、自分の実力の無さに毎日打ちひしがれる日々。
住んでいるところは、お風呂なしのボロボロの木造アパート。今日の夕食は、自分の家で作って持ってきた昆布のおにぎり一つだ。
お客さんがいない間に、様子を見て食べている。
「はぁ、お腹空いた」
おにぎり一つでお腹いっぱいになれる身体だったらいいのに。最近、よく思う。
私の毎日のサイクルは、平日の日中は音楽の専門学校、夕方から夜間にかけて成瀬書店のアルバイト。土日などの休日も予定が何もなければ、一日中成瀬書店のアルバイトだ。
このアルバイト、何が魅力だってお客さんがあまり来ない。一人で任せてもらっているので、人間関係で困ることがほぼない。売上はほとんどないのに、アルバイト代はしっかりと払ってくれる。 チェーン店のファミレスで働くより断然仕事は楽だと思うが、書店の時給はそれほど安くはない。
あと、基本的には古本屋というと、お客さんが持ってきた本を買い取りするイメージだけど、成瀬書店は買い取りはなし。在庫で置いてある本を売っているだけだ。
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