Last Fight 君の犠牲の上での成果なんて、何の意味もない

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候補者の名前は「鮫島裕次郎」。 年齢は46歳。 現在、別業界の大手企業の幹部ポジションで次期取締役の座が約束されているとのこと。 年収も、5000万を超えている。 このことから、鮫島さんにとってYAIDAへの転職は、ポジションダウン&年収ダウンのツーダウンになることが分かる。 こちらとしては、鮫島さんを入社させるメリットはある。 YAIDA側もある。 だけど、鮫島さんには、メリットが見つからない。 なので、今回のミッションはどちらかと言えば、YAIDAに鮫島さんが転職したいと強く思わせなくてはいけない。 でなければ、YAIDAが内定を出したとしても、鮫島さんが一回内定承諾をしたとしても……簡単に鮫島さんに入社前辞退されてしまう。 この業界、入社前辞退を転職者にさせてしまうと、一気に信用度がガクーンと下がる。 内定前辞退は、企業側が受け入れの準備を始める前の準備なので、せいぜい痛みとしては蚊に刺されたレベルで済む。 一方、入社前辞退になってしまうと、受け入れ体制をコストをかけて整えている途中での事態になるため、このコストが全て水の泡になる。 例えば、この社員のために20万のPCを買ったとして、その社員が入らなかったら20万円丸々無駄になる……とイメージした方が、この場合はわかりやすい。 あとは、その人の入社手続きをしている事務の人件費もある。もし事務の人の時給が2000円だったとして、事務手続きにこれまで3日8時間かけていたとしたら、2000円×8×3で、48000円の損失。 この無駄な損失を、採用側の企業は特に嫌う。 特に紹介会社という、大きな金額を支払う事を約束されているルートの場合は特に。 だからこそ、慎重に、入社前辞退にさせてはならないのだ。 私たちにも紹介Fee……理論年収の30〜50%の金額が入ってこない。今回の場合は1000万〜1500万円がパーになってしまうから。 だからこそ、元木さんのスキルは、今回かなり重宝した。 何故なら、彼は物を購入させるエキスパートだった人。 それは誰かに、「選ぶ」という選択をさせるエキスパートと言っても過言ではない。 まず、長谷部さんから、どういう人材に、どう活躍して欲しいのかという明確なビジョンと、その人に与えられる特権などを細かく私が聞く。 それを、元木さんに伝えて、彼が噛み砕いて鮫島さんに伝える。 そう言う、連携プレーをコツコツと繰り返した結果、元木さんは鮫島さんから 「今の会社より、ずっとやりがいを感じました。役員の椅子より、YAIDAで働く事を選びます」 という言葉を引き出すことができたそうだ。 「自分、この仕事が決まれば、やっとこの業界で働いてもいいと、認められる気がする」 そう元木さんが私に教えてくれたことが、頭に残った。 そうなって欲しいと、私は純粋に願った。 そして。本番前日の今日、私は、本番前の緊張ともう1つ……今、すごく気まずい関係になっている人に話しかけなくてはいけないという2種類の緊張に体が蝕まれていた。 「加藤さん」 私は、難しそうな資料と睨めっこしている加藤さんに、勇気を出して話しかけた。 「何?」 驚くほど、普通に返ってきた。 私だけ緊張して、馬鹿みたいじゃないか。 「明日のYAIDAの最終面接、滞りなく準備おわりました」 「そう。分かった。ありがとう」 加藤さんが今浮かべている、ほんの少しのお柔らかな微笑は見覚えがある。 それは、私以外の女性に見せていた姿。 井上さんに対しても、見せていた。 何故、私にだけ見せてくれなかったのかと、かつて悔しく思っていた。 そして皮肉にも、今初めて分かった。 あんなに羨ましいと思っていた、加藤さんに微笑を向けられることが、実はこんなに寂しいことだったなんて。 覆水盆に返らず。 失って初めて分かることがあまりにもこの世界には多すぎる。 「どうした?早く席に戻れ」 声には感情がない。 だけど、戻れと言う命令形から、私は加藤さんに突き放されたのだと……分かった。 「わかりました」 私は急いで立ち去ろうとした。 その場にいることが、恥ずかしいことのように。 ところが。 「ああ、そうそう高井さん」 あ、いつものように加藤さんが、戻ろうとした私に話しかけてくる。 きっと、追加で嫌味がまた来る。 よし、来るならこい! 全力で迎え撃ちにして……。 「長谷部さんに伝えて」 「え?」 「目の前の利益に囚われて、長期的な利益をドブに捨てないように、どんな相手でも公平にジャッジしてくださいって」 そう言ってすぐ、加藤さんは立ち上がり、ノートPCを持ってどこかに行ってしまった。 「……は?」 私は、いつもあったはずのルーチンだったものがなかったことへの戸惑いと、まるで 「無理にその候補者を入社させようとするな」 とでも言いたげな加藤さんの伝言に混乱した。 どうして。 この独占案件を成功させれば、この部署は……私のチームは……それがつまり加藤さんがとても評価されることに繋がる。 それなのに、加藤さんはそれすらを目先の利益とバッサリ切った。 それは……私が作る成果なんか無くても、自分はやっていけますという加藤さんなりの私へのアピールなのだろうか……と思った。 つまり、私なんかいなくてもいいのだと、暗に拒否された気がした。 悔しいので、私は長谷部さんへの伝言をなかったことにして、明日を迎えることにした。 それが後々、大事件に繋がるなんて思いもせずに。
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