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「あー私を通り過ぎた男ね。」
ある日の昼下がりに食堂で会話する女子社員同士の会話を小耳にはさむ。若い女子社員が一つのテーブルを囲み、顔と肩を突き合わせんばかりに会話していた。
私を通り過ぎた人?それは何か、一時の気の迷いか何かで情事に及んだと言う事か?
健也は社食を担当するおばちゃんにトレイの上に盛ってもらった、半ライスチャーハンと、ラーメンのセットが零れ落ちそうになる事に注意を注ぎながら、自分の座るべき席を探した。
語らう彼女達の傍に席を陣取ってこの後の会話も盗み聞きしようかと思ったのだが、どかっと腰を降ろした健也の姿に怪訝そうな表情を浮かべて女子社員達は立ち去って行った。
健也はその日からその話を忘れられなくなった。社内を通り過ぎる女子社員を時々チェックする。そしてその時の女性社員の姿を探すのだ。
ある日の昼下がり、社内のベンチで一人スマホを弄りながらぼーっとして過ごす姿を発見する。
「有希!」
「おそいよ!」
「ごめーん」
どうやらベンチで待ち合わせをしていたようだ。
有希、さんて言うのか。
健也は翌日、人影の無い物陰木陰で有希が一人でいるところに後ろから接近して行き声をかけた。
「こんにちは。営業開発3課の関口健也って言います。」
「ど。どうも。はじめまして。」
有希が少し驚いた表情をしながら健也に応じた。
「今日はどのような要件・・ですか?」
真顔で聞き返されたので、慌てて健也はこう告げた。
「あの・・以前から有希さんの事が気になっていて。できればお付き合い・・というか誰か好きな人いるんですか?」
「え?」
そこで有希の表情は硬く硬直したかと思うと、次の瞬間スマホで慌てて電話をする。
「はい。今、変な人に告白っていうか、誘われています。準強姦罪で逮捕必要です!はい、ここは、社内の1階エントランス裏の喫煙所です。あーそれは知ってますけど、たまたま残業で遅くなって使ってました。はい。そうですね、18:00以降は使ってはダメなのは知ってました。はい、お待ちしてます。」
電話を切ると、有希はタバコの煙を灰皿に押し当ててそっと伏し目がちになりながら、スマホを両手に挟み込んで祈るような表情をして、健也を睨み返すように見つめた。
有希は、時々くちびるを尖がらがせながら「しっ」「しっ」とつぶやいていた。
健也はあまりの出来事に立ちすくんで身動き一つできない。
数分後、社内の警備員が数名集まってきて、顔面蒼白の健也を取り囲んだ。
「君かね。」
「え?」
「変質者。」
警備の事務所でまずは取り調べを受けて、女性に対して告白めいたことを言った事を自白したところで、警察に引き渡される事になる。
パトカーに連行されて、警察署の檻のような場所に入れられ、一晩過ごす。
翌朝、会社の弁護士が現れて一枚の紙切れが手渡される。
『解雇通告』
数日、警察署内の檻の中で過ごしたところで、被害者の女性(有希)が被害届を取り下げたとの事で、釈放される事になった。
3日ぶりに外に出て、健也は迷わずに行きつけのラーメン屋に行ってラーメンを食べた。
「おや、健ちゃんじゃねーの。少しやせたんでないの?」
「あーまーね。」
健也はラーメンを激しく喉に流し込むと何も言わずお金を置いて店を後にした。
3日間殆ど食事が喉を通らなかった。今後の事を考えると頭が真っ白だった。だから非常に空腹だった。本当はもう一杯ラーメンをおかわりしても良かったのだが。そこまでの気分でもなかった。
自宅に戻るとアパートの入り口には「家賃入金せよ」と、大きな張り紙がされていた。
その張り紙を無視しながら、部屋に入る。部屋は主の帰りを待ちわびたかのように埃臭く、カーテンを閉めたままだったので、蒸し暑かった。
人生で生まれて初めての女性に対しての告白が、結論はコレである。本当はこういうタイミングで、有希が現れて、
「あれはやりすぎだったね」
なんて言ってくれるべきではないのか?
淡い期待を他所に、日は暮れて夜になった。
不貞腐れて夜の街を歩く事にした。
繁華街の一角で、友達と遊び歩く有希の姿を見つけた。白い短いミニスカート。ニットのカーデガン。長い三つ編みとサングラス。恰好は完全に会社で見る姿とは違うが、同一本人だとわかる。
所詮は住む世界が違ったのだ。
己の身に恥じるべき過ちを胸に刻み込みそこを通り過ぎる。
再び自室に戻る。ため息を一つ。
何も無いままに翌朝を迎える。
「何もしなくても、腹は減るんだな。」
健也は空腹をこらえながらラーメン屋に向かう為に自宅を後にする。今頃自分がいなくなった事で会社は色々混乱しているのだろう。やりかけのプロジェクトはどうなったのか、打ち合わせの約束があったクライアントとの取引は一体どうなったのか。
会社からの連絡は全て着信拒否をしているから何も情報は入ってこない。連絡と言えば警察署から書類への捺印の依頼をする電話だけだった。親にも兄弟にもまだ伝えていない。
きっと両親にこの話をしたなら、
「どれだけ苦労して、お前をあの大企業に入れたと思ってんだ!!」
と、叱り飛ばされるのが目に見えている。
不意に電話が鳴る。しまった非通知を着信拒否しそこねた。
「今から会社に来れるか?クライアントが、関口じゃなきゃダメだって言って揉めて大変なんだ。」
上司の声。
健也は急いで背広に着替えると会社に向かう。夜の21時だ。入館には少々手続きも必要だったが、閑散としたオフィスには割と簡単に戻れた。
「待ってた。」
上司の金子が揉み手で健也を迎え入れる。直ぐにPCの前に座らせるとクライアントから届いたメールを指さして返信を求めた。これは健也が主導で進めていたプロジェクトの最終確認の依頼文だった。
「やっと、クライアントからデータが上がって来た。その中身の確認は関口にしかできない。」
「今やります。」
健也はPCのキーボードをたたく。
「終わりました。」
「サンキュー。なぁ、健也、事件は未遂に終わった。ていうかあの女性社員なんだかおかしいぞ。変質者は実は関口じゃなかった、なんて言いだしたんだ。だからお前は悪く無いと思う。で、相談だが、一旦契約社員で復職しないか?契約社員だったら、上に話通さなくても俺の権限だけでなんとかなるんだ。」
「考えておきます。」
健也はそう告げてオフィスを後にする。有希に告白したあの喫煙所に立ち寄る。もちろん22時を回っている。誰も居るはずはなかった。
「そんなに私の事、好きだった?」
不意に後ろから声がする。有希の姿だった。
「ごめんね。私も前から好きだった。誘ったのは私の方。あなたが気になりそうな事を言って私の存在に気が付かせた。実際に告白されたらどうして良いかわからなくなって、警察呼んじゃった。ずっと待ってた。」
「ずっと?」
「うん。きっと残務処理で一度は戻って来るってわかってたから。」
二人はその日から付き合う事になった。
暫くして健也は復職の扱いとなった。
恋は時として迷いながら遠回りをするものだから。
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