ニコッ!

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ニコッ!

 むさしの台病院の屋上で、矢崎はぼんやりと目の前に広がる光景を眺めていた。 「あのさぁ?」  久恵が何とはなしに話しかけてくる。 「何!?」 「何って・・・!?」  何かオレに聞きたかったのだろう、と矢崎は久恵の顔を見て思った。 「言ってくれれば、きっと、うん・・・」 「そうねぇ・・・」 「・・・(そうねってことはないだろう?!)」  郭公が啼いている。5月の爽やかな風がふたりの頬を撫でて行く。 「たぶん、どっかに一緒に行った時のことよ」 「どっかに!?・・・一緒に!?・・・」 「犬吠埼かなぁ」 「あぁ、太平洋がドドォ~ンと広がっていたねぇ・・・」  そんなとこ久恵と行ったかなぁ・・・と矢崎は思ったのだけど、口にはしなかった。  ふたりは最近ほぼ同じように認知症になっていることがわかり、通院しながら、ボチボチと生活をしている最中なのだ。  今日病院に来たのは、矢崎が健康診断でちょっと引っかかり、胃カメラを呑んだからだ。  一応検査が終わって、とりあえず今日はそれで何もすることがなくなり、付き添って来てくれた久恵と屋上に出て、ひと時を過ごしていたのだ。 「いろんなことが、あれねぇ・・・」 「そうだなぁ・・・」  中学卒業の時の寄せ書きに、人生あと50年、と書いたことを矢崎は思い出した。そんな時間が現実に通り過ぎて行ったことに思いを馳せるとゾッともするのだけど、過ぎてみると、それはそれで痛快でもあった。 「そうだ、思い出した!」 「何を!?」 「美玲が生まれてすぐに、オレのキーホルダーから家の鍵がなくなってしまったことがあったろう!?」 「懐かしいわぁ、代々木上原のアパート!」 「あぁ・・・」 「隣のお家の裏庭に咲いてる紫陽花がとてもキレイで、この季節チャルメラが夜になるとやって来てね・・・」 「あの鍵・・・」 と言って何かを口にしかけた瞬間、矢崎は自分が何を言おうとしていたのかが、わからなくなってしまった。 「あのさぁ!?」  久恵の言葉に、ニッコリと、まるで何もかもわかっているように、微笑んで見せた。  よくわからないことばかりなのだけど、きっとその方が上手く行くのだろうと思っているだけなのだけど・・・。  陽が少し傾いてきたようだ。風も出てきたようだ。  チャルメラの音が聞こえた気がした。いや、豆腐屋のラッパの音だったかもしれない。  なんだってよくなってきている。なんだっていいわけでもないのに・・・。 「・・・」  妻の名を呼ぼうとして、なんだったっけ!?と思ってしまった。  ポニーテールがとてもキュートだった女の子。  大瀧詠一の『A LONG VACATION』をカーステレオで一緒に聞いた女の子。 「・・・(誰だったっけ)!?」 「あのさぁ・・・!?」  覚えていないんだよ。なんにもかもが氷河が崩れて行くようにして・・・。 「・・・(もう何も聞かないでくれ)!」 「帰りましょうか!?」  帰ろう。あの頃へ帰ろう・・・。  頷いたらホッとした。  久恵の笑顔にホッとした。 「!」  そうだった。久恵だった。  むさしの台病院の屋上から、遠く西の彼方に朱く染まった富士山が見えている。  東名高速をスカGでぶっ飛ばして、箱根や伊豆へ彼女と出かけたもんだ。  『雨のウェンズデイ』が君は好きだった。その頃の君は、まさしく天然色な女の子。  『恋するカレン』のイントロが流れてくる。 「ねぇ・・・!?」 「『ア・ロング・バケイション』のこと!?」 「そう!」  そうだったんだぁ~・・・そうだと思ってたよ。 「大瀧詠一って、カナリア諸島に行ったこともないくせにあの曲作ったんだってね」 「・・・(大瀧詠一??誰??・・・カナリア諸島??何のこと???)」  でもそんなことは口にせず、名前が思い出せない、傍にいる女性に向かって、矢崎はニコッとしてみた。大切な人なのだ。だから、心を込めて、ニコッと。
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