エピソード 15

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エピソード 15

深く澄んだ空気の中、ピアノの音が教会に響き渡る。 パイプオルガンとはまた違った音色だ。 そういえば。 今まで、自分がピアノを好きだとか嫌いだとか考えたことがなかった、と茜は思う。 気がつけば、幼稚園の頃、母親にピアノ教室に連れて行かれ、それからは毎日、当たり前のように練習をし、どんどん新しい曲を弾けるようにしていくことを戦闘ゲームのように感じていた。 敵を倒せば、また次の敵が現れるような感じ。 コンクールは、目の前に与えられた「大きな試練であり、ラスボス」 素子先生という最強のパートナーによって倒してきた幾人かの大きな敵。 そんな感じだ。 だからピアノを弾くことが、純粋に楽しいと思っている今の自分が、茜にはとても新鮮だ。 そう。茜は今、ピアノを弾くのが、嬉しくてたまらない。 特に、リオンにピアノの指導をしてもらっていることがその気持ちに拍車をかけている、と茜も内心気づいている。 奏でるピアノの音と、高くもなく低くもない、柔らかなリオンの声が重なって、茜は幸福な気持ちに包まれるのだった。 これは、チェルシー伯爵ルイスにお礼を言わなければならない。 というのは彼が、自分の知るピアノを保有している教会や知り合いの貴族に連絡をしてくれたお陰だ。 茜が自分の親しい友人であること、できれば練習のためにピアノを貸してやって欲しいと頼んでくれ、こうやって練習ができているのだ。 今日もグレイブバリーという街の郊外の丘にたつ教会で、リオンの指導を受けているところだ。 この教会の司祭は、ルイスの亡くなった父親の旧友だ。ルイスのお陰で、こうやって心置きなくピアノを弾かせてもらっている。 「歌いすぎないで、アカネ。膨らませすぎたり、大げさに表現する必要はないから。このフレーズは、この音へ向かって行くことを意識してみて。」 茜の弾くピアノにリオンがアドバイスをする。 歌う、と言うのは、メロディが、まるで歌っているかのようにピアノを弾くことだ。 意外なことにリオンの指導は、素子先生と同じくらい細かくて厳しい。 作曲家が込めた「想い」や「物語」にも思いを馳せるようにと何度も繰り返す。 それを感じなければ、弾く意味がない、とも。 もちろん、技術的なこともリオンはアドバイスする。 音を入れていくポイントはもちろん、その量にもこだわる。 流れも大切にするし、縦のライン、その裏のビートにも気を配るように言うのだった。 「ちょっと休憩しようか。」 演奏が終わると、少しだけ離れた礼拝用の椅子に腰掛けてピアノを聴いていたリオンが、自分のヴァイオリンケースを持って立ち上がった。そして、ゆっくりと茜のそばにやってきて、ステンドグラスを通り抜けた淡い光を受けて、透けるように微笑んだ。 激しく冷たい炎を内に秘めている顔と包み込むような優しさを感じる顔、大人びた顔と時に感じるやんちゃな少年の顔。 どれがいったい本当のリオンなんだろう? 茜はそんな想いにとらわれる。 「だいぶ、仕上がったね。あと二日あるから、間に合いそうだ。少し休憩したら、俺のヴァイオリンとあわせてみよう。」 「大丈夫かな。まだまだ練習が足りない気がするの。」 茜のピアノは、二日後に開かれる演奏会でお披露目される予定だ。 ウェントスたちジプシーの音楽団は、グレイブバリーの領主の館で、そのあるじ、コリン・ハルケット卿のための祝いの曲を弾くように仰せつかっている。 「ずいぶんよくなったと思う。それに、そもそもこの演奏会は、ハルケット卿を祭り上げるだけが目的だし、街中がお祭り騒ぎになるはずだから、俺たちの演奏を聴くヤツなんていないさ。」 リオンは、そんな風に言ったが、茜はリオンがそんな時でも演奏の手を抜かないことを知っていた。 「ねぇ、リオン。その、ハルケット卿って、有名な人なの?」 ウェントスから、コリン・ハルケットという、この街の領主を祝う催しであると聞いてはいるが、それがどんな人物なのか、何の祝いなのか、茜にはよくわかっていなかった。 「コリン・ハルケットは、イングランドを救った英雄のひとりなのさ。 ほら、ウォータールーの戦いで亡くなったトーマス・ピクトンって中将がいただろ?彼は、その中将の右腕だったんだ。 コリン・ハルケットも肩にマスケット銃の弾を受けて、瀕死の重症を負ったらしい。しばらくロンドンの病院で治療を受けていたそうだけど、やっと動けるようになって故郷に帰ってくるそうだ。偉大なる英雄のご帰還ってところだね。」 「ウォータールー。。。?」 『ウォータールー』という衝撃的な言葉につまづいて、恐るおそる尋ねる。 「まさか、それって。あの、ナポレオンの、、、ウォータールーの戦い?」 小3の頃に弾いた「ウォータールーの戦い」 この曲は、ナポレオン最後の戦いを描いた曲だと素子先生から聞いたんだっけ。 1798年のフランス革命後の激動のフランスで、二度めの皇帝に返り咲いたナポレオンがフランス軍を率いて、イギリス連合軍と戦い、敗れた、って。 そんな風に素子先生は説明してくれた。 「そうさ。イギリス連合軍は、ウォータールーで華々しくナポレオンを撃退したのさ。」 茜が顔色を変えたのに気づかないリオンは、さらりと言う。 「それって最近のことなの?」 まさか、この世界って、ナポレオンの時代なのだろうか? 単にイングランド、というのではなく、過去のイングランドだとしたら? そう言えば、納得できることもある。 車も見かけない馬と馬車の世界。 スマホもパソコンもないのは、ジプシーの世界だから、じゃなくて、ここが過去の世界だから? そう思うとすべてがつじつまがあう。 「戦勝のニュースで賑わったのは、茜が俺たちの仲間になった直前の頃だぜ?二ヶ月前のことを忘れたの?」 リオンが笑いかけて、ふと。 「もしかして、その頃の記憶もないのか?」 急にリオンの声のトーンが陰る。 どうしよう? リオンに本当のことを言うべきだろうか? 頭がおかしいと思われるだけかも? ううん。 リオンなら。 茜が本当のことを話してもわかってくれそうな、そんな気がする。 「あのね、実は。信じてもらえないかもしれないけど。。。」 茜はリオンに自分の身の上におこったことを話すことに決めたのだった。
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