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エピソード 1
「あれからいくども、季節がめぐってきた。
春は、木漏れ日の中に。
夏は、雨上がりの午後の輝く緑に。
そして。
秋は、ヒースを渡る風に。
冬は、凍る月の落とす影に。
ふと、君の面影を探してしまう。
今も。
少しも褪せることなく、君の微笑みが、涼しげな声が、奏でるピアノの音色が、僕の中に眠っている。
今、君は幸せに笑っているだろうか。
泣いてはいないかー。
すべては夢だと忘れてしまっただろうか。
そうであって欲しいと願う気持ちとそうでなければいいと思う気持ちが、僕の中で同居している。
君を想い、曲をかいた。
この楽譜が、いつか君のもとへ届き、僕の旋律が、ピアノをひく君の頬を風のように優しく撫でるようにと。
愛をこめて。
アーサー.L.グランチェスター。」
素子先生は、余韻を楽しむようにゆっくりと『クラッシック作曲家名鑑』から顔を上げると、少し首を傾げて茜に微笑みかけた。
「これが有名な『グランチェスターの恋文』なの。グランチェスターが想いを寄せる女性は、私たちと同じピアニストだったようね。こんなラブレターと美しい曲を贈られるなんて素敵だと思わない?」
吹き出したくなる気持ちを押さえながら聞いていた茜は、うなづくしかなかった。
高校生にとっては、恥ずかしすぎる内容なんですけどー。
こんな時の素子先生のキラキラ輝く瞳を見ていると茜はいつも置いてけぼりになった気持ちになる。
二台並んだグランドピアノ。
その片方に座った素子先生は、白く長い指で次のページをめくった。
「茜ちゃんが今弾いている『夕暮れのエチュード』の自筆譜はね、この『グランチェスターの恋文』と一緒に、今からちょうど100年ほど前にイギリス、チェシャーにある古城から発見されたの。長い間廃墟になっていたその古城をアメリカの企業が買い取って、ホテルに改築する工事中に見つかったそうよ。発見当時は、ロマンチックな恋の物語だと世界中でかなり騒がれたんですって。」
茜の母親と一歳しか年が変わらないのに、素子先生は、どこか夢見る少女のような雰囲気がある。
それは、栗色の巻き髪のせいだけではなく、音楽家たちに恋をして、音楽という物語の中を生きているんじゃないのかと思わせる発言を時々するからだ。
ところが、いざピアノのレッスンになると素子先生の柔らかなその姿はいっぺんに豹変する。
音色の質、音の方向、音のつぶ、何から何まで完璧を求めて、絶対に妥協を許さない。
たった「ひとつの音」のために三十分練習させられたこともある。
ピアノのコンクール、全国大会まであと一ヶ月ちょっと。
予選、本選では、課題曲のバッハも弾いてきたが、全国大会で弾くのは、自由曲の「夕暮れのエチュード」のみ。
この三分ほどの曲で、今年の夏休みの日々がいっぱいになる。
たぶん、部活も友達と会うことも制限されるんだろうなぁ。
茜は、書き込みで真っ黒の楽譜を開きながら、ため息をつきたくなってきた。
もうミスなく弾けるし、暗譜も完璧。ここからどれだけ変われるんだろう。
本当にしんどいのは、ここからだー。
そんな重苦しい気持ちをふりきるように、茜はひとつだけ気になっていることを尋ねることにした。
「あの、、、素子先生。グランチェスターと恋人はその後、どうなったんですか?」
どんなドラマや小説も結末は知りたい。
ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。
「そうよねぇ、それが一番知りたいわよね、茜ちゃんたち若い人なら。ふふふっ。」
素子先生の年なら知りたくないものなの?
一瞬、そんな疑問が首をもたげる。
「それがね、グランチェスターについては、何もわかっていない状態なのよ。資料という資料ががほとんど残っていなくて。ベートーベンやショパンは、お友達にたくさん手紙を書いていて、そこから色んなことがわかったりするのだけど、残念ながらグランチェスターについては、そんな手紙もなくて、実在したのかすら怪しいくらい実像がないの。」
素子先生は、整った眉を大袈裟に寄せて悲しげな表情を作った。
「肖像画もないし、この恋文と楽譜が恋人のもとへ届けられたのかもわかっていないらしいわ。」
恋文は届けられて、相手の元で保管されていたのか。
それとも渡されないままグランチェスターが保管していたのか。
「古城の持ち主は、グランチェスターだったんじゃないんですか?」
なぜだか、そこは知りたい、と茜は思ってしまう。
「そうよねぇ。せめて、古城の所有者がわかればよかったんだろうけど、古城はチェシャー州に寄贈されたまま長い間ほったらかしになっていたそうなの。だから持ち主も正確にわかっていないらしいわ。残念よね。」
そこで、素子先生は言葉を切って、目の前の楽譜に目を移すと、きっぱりとした口調で付け加えた。
「グランチェスターがこの曲と恋文を想い人に渡せたかどうかは、わからないけど、彼の想いを感じることは、私たちにもできるわ。その想いを受け取って、この美しい曲をしっかりと仕上げていきましょう。とりあえず、あたまから通してみましょうか。」
夕暮れのエチュードの最初を飾るのは、華やかで軽快なアルペジオ。
何度弾いても「慣れる」ことのない流れるような旋律。
転ばないようにー。
茜は、はい、と小さく返事をすると、息を吸って、夕暮れのエチュードを弾き始めた。
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