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エピソード 10
「君の願いを叶えてあげよう。」
チェルシー伯爵ルイスは強い光を放つ青い瞳をまっすぐに茜に向けた。
「僕が昨日、君の願いを叶えるチャンスを台無しにしてしまったからね。だから、僕がかわりに君の願いを何でも叶えてあげようと思っているんだ。ええっと、失礼、君の名前は?」
茜は、ちょっとびっくりして、それから雲の間から太陽の日差しが溢れてくるように満面の笑顔になった。
この人は貴族でありながら、人を身分で差別したりしない人なのだ。ジプシーを虐げたりしないのだとわかって、茜はなにより嬉しかった。
「私の名前はアカネと言います。チェルシー伯爵のお気持ち、とても嬉しいです。今日は皆に食事をふるまってくださって、伯爵には感謝しかありません。」
皆の笑い顔を久々に見ることができた。ジプシーたちに温かい対応をしてくれた伯爵。
それで充分。茜の真の願いは、現代の日本に帰ることだけれど、それは無理。茜の心の奥はチクリと痛んだ。
「僕のことはルイスでいいよ。どんなことでもいいんだ。昨日、何かを願おうと思っていたんじゃないの?僕にできることはないかな。」
茜にはルイスの優しい思いやりが嬉しかった。
「昨日は、目を閉じて通り抜けたら願い事が叶う、っていうことが、ロマンチックで素敵だなぁと挑戦したんです。今は、、、うーん、特に思いつかないんです。」
ルイスはこれ以上茜に尋ねても彼女が願いを言うことはないだろうと理解した。
「わかった。君の願い事は未来永劫有効だからね、いつでも何か願い事ができたら、僕に言ってきなさい。必ず、約束を果たすから、いいね。」
そう言って、ルイスは茜の右手をとって自分の小指を茜の小指に絡ませた。
「pinky swear」
約束の誓い、と言って。
日本の指切りげんまんみたいだと茜は驚いた。
「じゃあ、せめて今は、昨日汚してしまった洋服の代わりをプレゼントさせてくれないか。」
ルイスは、そう言ってそばにひかえていた老人に部屋のクローゼットを開けさせた。
「ここは嫁いでいった妹の部屋だったんだ。妹は今、ロンドンに住んでいるんだけど、彼女が君くらいの年齢の時に着ていたドレスが置いてある。たぶん、体型も同じくらいだからぴったりあうと思う。このなかから何着かアカネの好きなのを持って行って欲しいんだ。これは、アカネのためじゃないよ、洋服を汚してしまった僕のためだからね。」
ルイスは、いたずらっぽく笑った。
ルイスの妹さんは、きっとルイスと同じ穏やかな気性の女性だったのだろう、と茜は思った。淡い色の優しい色づかいのドレスがそう言ってる気がする。
茜は、ルイスの思いやりをありがたく受け取ることにして、ドレスを一着選ぶことにした。
茜が選んだ淡い若草色のドレスを着てルイスとともに広間に現れた時、ジプシーたちは、まず、ふたりがお似合いの爽やかなカップルだとどよめいた。
一瞬、そのドレスの女性が、自分たちの知るアカネであると理解出来なかったのだ。飾りの少ないシンプルなデザインのドレスだが、かえってそれがスレンダーな茜を大人っぽく魅力的に見せていていた。
最初に口を開いたのは、フィン。
「わぉ!アカネ、見違えちゃったよ。すっごく綺麗だ。」
すぐに立ち上がり、嬉しそうに茜の周りをぐるぐると色んな角度から眺めて歓声をあげる。
ウェントスや他のジプシーたちも
「アカネ、驚いたよ。」
「すごく似合っている。」
口々に茜のドレス姿を誉めたのだったが、彼らは皆、なぜ目の前の茜がドレスを着ているのか、わからないでいた。
フィンだけが、昨日の絵描きの青年が自分たちの招待主だとピンときたようで、晴れやかな顔をルイスに向けた。
「みなさん、はじめまして。僕はこのチェルシーパークの経営者、ルイス・ウィリアム・チェルシーです。昨日の遊園地では街の人々と共にみなさんの素晴らしい演奏を楽しませていただきました。今日の招待はそのお礼の気持ちです。少しばかりですが、お土産も用意しています。」
ルイスはそう言って部屋にいるジプシーたち皆に視線を投げかけた。
これがチェルシー伯爵。想像以上に若く爽やかな青年だ、ジプシーたちは囁きあった。
それがなぜ、アカネと?
すると、事情を知らないジプシーたちに、フィンが、昨日のルイスとの経緯を説明する。
それでやっと皆が茜が着ているドレスの意味もわかったようだった。
それを何よりジプシーたちは茜のために喜んだのだが、イザベラだけがむっつりと不機嫌な表情でそっぽを向いた。
そんな中。
ルイスはふと、その部屋の中に、茜と同じ異質なオーラをまとう少年がひとり、こちらを見ようともせず、座っているのに気付いた。
存在を消そうとでもするかのようにひっそりと。
周りのジプシーとは明らかに違うその少年の空気感。
服装やいる場所でなく、生まれた時から持つ空気感が自分と似ている。
彼は何者?
そんなルイスの思いをウェントスの言葉が遮った。
「伯爵さま、今日はお招きいただき、ありがとうございました。見に余るお言葉、我々一同感涙にたえません。聞けば、伯爵さまは昨日我々の演奏を聴いてくださったとのことですが、実はそこにおりますアカネはピアノを少々弾きます。もし宜しければ、お耳汚しに演奏する機会をいただければ、と思うのですが。」
ウェントスは茜に「大丈夫だね?」というように目で合図する。
茜はウェントスにうなづいてから、ルイスの青い瞳を見つめ返した。
「しばらく練習をしていないので、ちゃんと弾けるか心配ですが、お礼に演奏させていただけたら嬉しく思います。」
「ほぅ。アカネはピアノを弾くのかい?それはぜひとも聴きたいな。ピアノは別の部屋にあるから、皆で移動しよう。」
ルイスはそう言って先に立って皆を案内した。
演奏が終わってジプシーたちが帰り支度を始めると、ルイスは部屋の隅にウェントスを呼んで茜がジプシーのメンバーになったいきさつを尋ねた。
ウェントスは数ヶ月前に茜が突然荷馬車の中に現れたこと、記憶を失っていて過去のことを覚えていないらしいこと、この先の彼女のことを心配していることを正直にルイスに伝えた。
「では、彼女には身内はいないのだね。」
ルイスは何かを考え込むように呟いた。
そして少し黙り込んだ後、
「もしアカネが了解したら、私が彼女の面倒をみることは可能かな?」
とウェントスの目を覗きこんだ。
それを聞いてウェントスは少し驚いたようだったが、意を決したように
「伯爵、申し上げにくいのですが、面倒を見る、と言うのはどう言った意味で?」
とルイスに問いかけた。
「アカネの親代わりになってあげたい、と思うんだ。僕なら彼女にピアノを習わせてあげることもできるし。どうかな?」
自分たちとどこか違うところを見ている不思議な瞳を持つ少女。
このまま自分たちとジプシーとして生きていくより、茜のためにはその方がいいのかもしれない、とウェントスは思った。
ウェントスは茜を呼ぶとルイスの申し出を伝え、茜の意思にまかせることも付け加えた。
「私が、伯爵の娘に?」
茜は一瞬意味がわからず、きょとんとウェントスとルイスを見つめた。
どういう意味かゆっくりと考えてみる。
ジプシーのみんなと別れて、このままここへ残る。ルイスの娘になって。
ルイスって家族はいないの?若く見えるけれど、私が娘に?
さっき、妹さんが嫁いでいるって言っていた。
ご両親は?
茜はいっぺんに色んなことが頭の中に押し寄せて整理できない。
その時突然、すぐ後ろでリオンの声がした。
リオンはつかつかとルイスに近づき、挑むようにまっすぐにルイスの目を見据える。
「あなたにはご家族はいらっしゃらないのですか?貴族という世界しか知らないあなたが、一生アカネを守れるとでも?百歩譲って、あなたはそのつもりでも周りの厳しい目や仕打ちにあなたやアカネが耐えていけますか。庇いきれなくなった時にあなたはアカネをどうするのか。」
「リオン。」
ウェントスは、突然現れたリオンに驚いた。いつも全ての事柄から距離を置くリオンが茜のことに口を出し、貴族にくってかかるとは。
リオンを止めようとしたウェントスに、ルイスは構わない、と言うように視線を送り、余裕たっぷりな様子で、その強いリオンの視線を受け止めた。
「僕に家族は妹しかいない。それに他人になんと言われようと構わない。元々変わり者の貴族と評判の僕だ。それより、君は、アカネの恋人なのかい?」
ルイスの質問に、一瞬リオンがたじろぐ。
が、すぐに
「仲間が不幸になるのがわかっているのに黙って見過ごすことができないだけだ。」
冷たく言い放った。
「だからどうしてアカネが不幸になると君は思うんだい?貴族の世界も風習も知らない君に。」
「わかっているから言って、、、」
怒りにまかせて怒鳴りかえそうとしたリオンは自分の失言に気付き、ハッとして黙りこんだ。
ルイスはリオンに、何千もの言葉が潜む瞳を向けたが口には出さなかった。やはり、最初の印象は当たっていたということか。
生まれは貴族、というのか?
茜はリオンの予期せぬ反応に驚いていた。
ウェントスも、確かに、リオンの言うことも納得できると、もうしばらくこの地に滞在し、この話はアカネにゆっくり考えさそうと決めたようだ。
三人は深くそれぞれの思いに沈んでいくのだった。
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