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エピソード 11
ジプシーたちが夜営するチェルシーパークの公園は、まだ寝静まっていた。
ふと、朝早く目を覚ました茜は、遠くでヴァイオリンの音色が聞こえたような気がして耳をすませた。
しばらくその姿勢でじっとしていたが、やはり空耳だったのか、遠くの鳥の鳴き声しか聞こえてこない。
しかし、茜はもう一度寝る気にはなれなくて、少し早いけれど起き出すことにした。
テントを出てみると、早朝の公園はまだ少し朝靄でうっすらとけむっていて、草木に抱かれた露も眠っているように見える。
茜は気持ちのいい朝の空気をいっぱいに吸い込もうと大きくのびをした。
その時。
また風に乗ってヴァイオリンの音が微かに聞こえてきた。
「やっぱりヴァイオリンの音だわ。」
なぜかリオンが弾いているような気がして、茜はヴァイオリンの音がやってきた方へゆっくりと向かった。
十分ほど公園内を歩いただろうか。
最初は微かに、ちぎれるように聞こえていたヴァイオリンの音が段々とメロディとなって流れてくる。
この曲は。
バッハの「シャコンヌ」だ。
なんて美しいバッハ!
その時、茜はリオンだと確信した。
やがて、開けた公園の芝生の上で少しうつむいてヴァイオリンを弾くリオンの横顔があった。
ピンと張りつめた朝の空気の中、美しい旋律が流れる。
リオンのヴァイオリンはどこまでも澄んでいて美しいけれど、ガラス細工のようだと茜は感じている。
冬の日の霜柱のように踏みしめるともろく崩れてしまう危うげで儚い感じ。
茜は静かにリオンのヴァイオリンに耳を傾けた。
「この曲、知ってる?」
曲が終わるとリオンは少し離れたところに立っていた茜に問いかけた。
私に気付いていたんだ。
茜は頷いた。
「バッハのシャコンヌね。私も好きよ。」
言ってから茜は、赤くなった。
なぜだかわからないけれど、リオンに好きだといってしまったような気がして。
慌ててつけ加える。
「リオンは、ヴァイオリンがすごくうまいよね。どうしたらそんなに上手に演奏できるのか教えて欲しいな。」
リオンのヴァイオリンの中には、なぜか物語を感じるから。明るい曲にも悲しい曲にも。深みがあって、豊かな音色。
茜には到底真似できない。
すると、リオンは茜の問いにまっすぐに茜を見つめ返した。
「確かにアカネのピアノは、上っ面だけ飾っていて中身が空っぽだと思う。その演奏を誉めるのは音楽をわかっていないヤツだな。」
バッサリと言われたけれど、なぜか茜はリオンが自分のピアノを悪く言ってるとは思わなかった。
的確なアドバイス。茜はそう感じたのだ。それに、いつの間にか「君」ではなく、「アカネ」に変わった自分への呼び方が嬉しい。
「アカネは、今まで大笑いしたり、泣きわめいたり、怒り狂ったりしたこと、ないだろ?」
確信に近い言い方でリオンは尋ねる。
確かに泣きわめいたり、怒り狂ったりは、ないかな。大笑いはあるかもしれないけど。
茜はうなづいた。
「ない、と思う。」
「だろうね。わかるよ、そんな感じだね。たぶん、アカネのピアノが空っぽなのは、それが原因だと思う。深く豊かな音になるためには、もっと色んなことを経験して、押さえきれない激情を理解しないとダメだと思うよ。」
「激情?」
「そう。色んな気持ち。正と負、両方の気持ちのこと。誰かを愛おしく思ったり、恨んだり、感動したり、驚いたり。どんな感情でもいいから、もっと桁違いに激しく、ってことかな。」
「どうしたらそんな感情を持てるのかなぁ?」
何気ない茜のひとことにリオンが呆れたようにまじまじと見つめる。
「アカネって、、、すごいな。どうしたらそんなセリフを言えるのか。」
「え?変だった?」
茜が慌てて尋ねると、予期せず、リオンがクスッと笑った。
初めて見るリオンの柔らかな笑み。いつもの氷のような表情が影を潜めている。
茜は胸の奥からどきんどきんと鼓動が鳴り響いてくるのを感じて焦ってしまった。
「本当に不思議な存在だよ。今まで会ったことのないタイプの人間。」
どんな育ち方をしたらそんな風になれるのか。
「それ、けなしてる?」
珍獣のように言われたと、茜はリオンをにらむふりをした。
「誉め言葉だよ。いや、ごめん、誉め言葉でもないか。」
リオンは光が透けるように優しく微笑んだ。
こんな風にも笑うんだ。茜はリオンの笑顔に胸が苦しくなる。
「そうだ、アカネ、よかったらちょっと出かけないか。見せたいところがあるんだ。」
「見せたいところ?」
「そう。君のピアノのためになるかと思って。」
「うん。行きたい。」
リオンの問いかけに茜がうなづくと
「すぐ戻ってくるからここで待っていて。」
そう言ってリオンは、公園の向こうに姿を消したかと思うとまたすぐに葦毛の馬に乗って現れた。
「ちょっと遠いけど、行こう。」
そう言って、手を差しのべ、茜を馬上に引き上げた。
リオンと馬に乗るのは二回目。
でも前よりドキドキするのはなぜなんだろう。
「少し飛ばすよ。」
そう言ってリオンは、馬の脇腹に鐙を入れた。
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