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エピソード 12
ふたりがやってきた渓谷は、色とりどりの花々でおおわれていた。
赤や紫、黄色や白色、ピンクやオレンジ色の花が辺り一面、絨毯のようにすべての世界を覆っている。
紫一色のヒースの丘と違って、キラキラと輝く宝石箱をぶちまけたようだ。
「すごいわ。」
茜は息を飲んだ。
「なんて素敵なの。こんな広い花畑、見たことない。世界中が花畑になったみたい。」
茜の反応に、隣でリオンが同意した。
「すごいだろ、この景色。視界一面の花畑って言うのが。」
「ホント、天国みたい。ね、リオン。あの花畑の中を歩いてみたいんだけど、大丈夫かなぁ?」
なんだか、足を踏み入れてはいけない、そんな気持ちにもなる。
「また、変なことを言ってる。」
リオンがくすくす笑いだした。
「大丈夫に決まってるだろ。さぁ。」
馬を近くの太いツタに繋ぎ、リオンが当たり前のように茜の手をとって、歩きだした。
風が野を渡り、キラキラと輝く。
こんなにいきいきと景色が輝いて見えるのはなぜだろう。
「ここは地図にも載っていない渓谷なんだ。知っているのは近くの村人くらいだと思う。」
「へぇ。リオンはよく知っていたわね。」
「子供の頃、この近くに住んでいたから。」
リオンが事もなげに言う。
リオンのことは何も知らない。数年前にジプシーの仲間に入ったとフィンが言っていた。
「子供の頃?」
「ここへ来たのはフィンくらいの年の頃かな。はっきりとは覚えていないけど、あの時も色とりどりの花が咲き乱れていた。」
リオンが遠くを見つめるような目をした。
「リオンって、歳はいくつ?」
茜は勇気を出して尋ねることにした。
やや間があって、
「17歳。もうすぐ18歳になる。」
リオンが茜の方を見ずに答える。
視線の先には咲き誇る花々。
リオンの横顔に感情は見えない。
18歳?高3くらいなんだ。
2つ年上。茜が思っていたよりリオンとは年が近い。
「アカネは?」
「私は16歳。なったばかり。」
「えっ?16歳?」
リオンがまじまじと茜を見つめる。
「てっきり13歳か14歳くらいかと思っていた。」
リオンは、驚きを隠さない。
「失礼な人ね。」
茜はムッとして頬を膨らませた。
その様子にリオンの口元に自然に笑みが浮かぶ。
「よかった。年が近くて。」
え?
茜が、リオンの言葉の真意を探ろうと濃いブルーグレーの瞳をのぞきこんだ。
そこには、いつもの冷たい氷の瞳はなくて、いたずらっぽい煌めきがあるだけ。
「アカネはどこから来たの?イングランド出身じゃないよね。覚えてないか。」
リオンが歩きながら独り言のように尋ねた。
「ニッポン。ううん、Japanって国。ここからすごく遠いところよ。」
「極東アジアの、島国の、あのJapan?」
リオンが確認する。
茜は、リオンが「Japan」という国名を知っていたことに驚いた。
フィンも、ウェントスですら、その単語を知らなかったのに。
「遠いところから来たんだね。どうやってイングランドへ来たの?」
「それが、自分でもわからなくて。目が覚めたら荷馬車で寝ていたの。」
あの時の衝撃を思い出して、茜はぶるっと震えた。
その様子にリオンは、
「ごめん。ジャパンから来たことは覚えているんだね。そう言えば、記憶がない、って言っていたっけ。思い出させようとしたわけじゃないんだけど、配慮が足りなかった。」
優しく謝った。
「お互い、別々の世界からジプシーの世界に来てしまった、ってことだね。俺もジプシーの仲間になってもうすぐ5年になる。その前は普通に暮らしていたんだ。」
普通に、と言うのは「定住」していたということなんだろう。
それに、リオンは貧しい暮らしをしていたようには見えない。
「リオンはヴァイオリンをどこで習ったの?」
茜の問いに、一瞬リオンの顔に緊張が走った気がしたけれど、
「母上から。母上はヴァイオリンとピアノの名手だったんだ。」
リオンは穏やかに答えた。
「じゃあ、リオンはピアノも弾けるの?」
「もちろん。ピアノもヴァイオリンと同じように好きなんだ。」
「リオンのピアノ、聴いてみたいなー。」
いつか絶対に聴きたい、茜は強く思った。
「そうだね、いつか。でもアカネは、あの伯爵の屋敷に残るんじゃないの?」
リオンは何気なく、でも1番茜に聞きたかったことを尋ねた。
「わかんない。でも、たぶん残らない、と思う。」
「なんで?贅沢に暮らせると思うけど。」
あんなに反対していたのに、今度はお薦めするわけ?
茜はリオンの真意をつかめない。
「別に贅沢な暮らしをしたいわけじゃないし。ウェントスが救ってくれたから、こうやって生きているんだし、何よりジプシーの音楽団にはフィンがいるし。」
茜はニッコリ笑った。
「フィンがいるし、か。アカネっぽいな。」
リオンも微笑みを返す。
そして、リオンは花畑の中にある小さな水溜まりを指差した。
「ほら、見て。あそこから、水が湧き出しているんだ。」
見ると数メートル先に、こんこんと水が湧き出す小さな水溜があって、その水が、やがて一筋の小川となって、渓谷の下手へと流れ出していた。
リオンは泉のところにくるとそこでアカネの手を離し、かがんで水を手ですくってみせた。
「ここの水は、うまいんだ。」
そう言って水を飲み干す。
「アカネも喉がかわいただろ。」
茜も同じようにかがみこんで、泉の水を飲んでみる。
花々のエキスが流れ込んでいるように感じて、甘くて冷たい。
「そう言えば、チェルシー伯爵に午後から屋敷に来るように言われているの。午後までに帰れるかなぁ?」
茜がふとそのことを思い出して、リオンに確認する。
すると。
一瞬、リオンの瞳が燃え上がる。
そして、リオンは茜の肩をつかみ、柔らかな花畑に押し倒し、荒々しくキスをした。
目眩がする。世界がぐらぐらと崩れ落ちていくような感覚の後、茜は、ハッと我に返り、リオンの頬に激しい平手打ちを入れた。
バチン!
「ってぇ。何するんだよ。」
リオンが打たれた左の頬を押さえる。
「何するのって、それは私のセリフでしょ。あなたって、実はスケベなセクハラ男だったのね!見かけに騙されたわ!」
茜は怒りにまかせて立ち上がった。
リオンも立ち上がり、まっすぐに茜の目を見据える。
「また何かおかしなことを言ってるけど、俺は殴られるようなことはしていない!」
リオンも言い返す。
「あなたみたいなセクハラ男と帰るなんてまっぴら。私は私で帰るから、もう私に構わないで!ほっといて!」
そう言い捨てると茜は、踵を返して、もと来た道をスタスタと歩き出した。
いや、ドスドス、と言った方が当たっているかもしれない。
「怒髪天をつく」
その言葉はこういう時のためにあるんだ、と茜は頭の隅でちらっと思った。
しばらくして。
茜の歩くすぐそばをリオンの馬が駆け抜けて行き、馬上にいるリオンの後ろ姿がだんだんと小さくなっていくのを、茜はプスプスとした怒りの目で見つめていた。
私のファーストキスを、、、。
信用していた私がバカだった。
あいつ、イザベラにもきっと、セクハラしているはず!
あ、でもリオンのことを好きな相手なら、セクハラにならないんだっけ?
ちらっとそんなこともよぎったが、
エロ男!
スケベ男!
マヌケ男!
思いつく限りの罵詈雑言をすでに見えなくなったリオンの後ろ姿に投げつける。
そのまま、花畑のある渓谷を抜け出すと、来た道、ヒースの平原の中を走る小さな街道がどこまでも続いていた。
馬で1時間か2時間くらいって、歩くとどのくらいかかるんだろう?
ふと不安がよぎる。
「大丈夫。一本道だから、迷うことはない。夕方までには、帰れるはず。」
自分にカツを入れる。
こうやって、歩き始めてから長いことたつ。時計がないから正確にはわからないけれど、太陽が南天にじわじわと近付いてきている。
30分は過ぎたよね?ううん、1時間くらい歩いた?
自分に問いかけてみる。
「リオン、本当に帰っちゃったんだ。なんて冷たい男なの。薄情な。」
さっきのリオンを罵倒する言葉の中に「セクハラ男」と並んで「冷酷な男」も加えておくべきだった、と茜は思った。
「フィンたち、心配しているだろうなぁ。」
だんだんと心細くなってくる。
道はまだまだずっと続いていて、民家の影もない。
最初の勢いはどこへやら、とぼとぼ歩いていく茜の近くに、突然、道の脇にあった牧草の山のかげから、馬を引いたリオンがひょっこり現れた。
「まだ、俺の馬に乗る気にならない?」
のんびりと茜に尋ねる。
「バカ!あっち行って。」
条件反射のように茜はリオンに怒鳴った。
「ねぇ、知ってるかい?この辺りにはでっかいキツネが出るんだ。やつら、たまに人を襲う。」
リオンが、ニヤリとする。
「嘘でしょ。」
茜はものすごく大きなキツネを想像して、頭から血の気が引いていくのがわかった。
「本当に先に帰っていいの?こんな道、めったに村人は通りかからないし、次の街まで歩くとまる一日かかるよ。」
リオンの目がからかうように煌めく。
悔しいけれど、ひとりでは帰れない。
背に腹はかえられず、茜はリオンの馬に乗ることにしたのだった。
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