エピソード 2

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エピソード 2

夏休みとはいえ、平日の夕方は、博物館に来場者はそれほど多くはなかった。 家族連れもまばらな廊下を抜けて、チラシを片手に、茜は一番奥の展示室に急いだ。 他の展示に寄り道はせず、真っ先に『グランチェスターの恋文』を見に行くことにした。あと一時間で博物館がクローズになってしまう。 「全国大会を控えたこんなタイミングで、グランチェスターの恋文が日本に、ましてやこの街に来るなんて、これはきっと運命なのよ。グランチェスターが茜ちゃんのコンクールを応援しているんだわ。しっかり本物の恋文を見てきてね。」 レッスンが終わると、素子先生は満面の笑顔で一枚のチケットを茜に渡してくれた。 それは、街の博物館で開催している「偉人たちの恋文展」の招待券だった。 芥川龍之介、アインシュタイン、シェークスピア、そうそうたる偉人たちのラブレターを集めた展示らしい。 その中にアーサー.L.グランチェスターの恋文もある。 どんな偉人たちにも、社会で認められた顔と別の面があって、そんな一面を見ることができるラブレター。 彼らは、自分のラブレターが未来の人たちに見られている、と知ったら どんな気分なのだろう? 恥ずかしいからやめてくれ、とは言わないだろうか。 そういえば以前、モーツァルトの手紙をネットで見て、上品で華やかな曲のイメージが崩れたことを茜はふと思い出した。 あれは、衝撃だった。 時間があったら、他の偉人のラブレターを見るのも悪くないかも、そんなことを思いながら、茜は重い扉を開いて、一番奥の部屋に入った。 そこは、ひんやりとした空気に包まれていた。 人影もない。 室内は回廊のようになっていて、順番に展示を見ることができるようだ。 茜は躊躇なく案内に従う。 入ってすぐの壁面には、イギリスのチェシャー州、フートンチェイスという村にあった荒れ果てた古城とその内部の写真がパネルにして飾ってあった。 その下には短く説明が添えてある。 工事が始まったのは、第一次大戦が終わった直後の1919年。 村にある崩れかけた城。 アメリカの資本がその古城を豪華なマナーハウスへと改築する工事が始まった直後、世界中の人々をロマンチックな気分にさせる発見があった。 家具も装飾品もないがらんと広い城の居間や居室。 長年の風雨が城の内部まで侵食し、天井に数々の染みや剥がれ落ちた壁が床に散らばっている。 グランチェスターの恋文が見つかったのは、城の一番奥の屋根裏部屋。 そこにあった古ぼけた革のトランクの中から、時が止まったような飴色の古い羊皮紙が数十枚出てきたのだ。 それが、グランチェスターの手紙と楽譜だった。 当時、それらは現場監督が自宅に持ち帰ることになったのだが。 たまたま夫から話を聞いた現場監督の妻がピアノを弾ける女性だったことから、この楽譜にかかれた曲が比類なき美しい曲であることが判明する。 その後は早かった。 その話を聞いたアメリカ本社がすぐにマスコミに連絡し、あっという間に美しいピアノ練習曲10曲とグランチェスターの恋文は世界中が知るところとなったのだ。 もちろん、当時英米のマスコミが、グランチェスターの正体を突き止めようと様々な調査をしていたのだが、結局この謎の作曲家については、何ひとつ明らかにすることが出来なかった。 わかっているのは、手書きの手紙が添えられたピアノエチュード10曲が、それぞれピアニストととして、学ぶべきポイントを盛り込みながらも、練習曲としてだけでなく、美しく心を揺さぶる一曲になっていることだ。 茜の弾く『夕暮れのエチュード』は、その10曲の中の最初の曲。 「第一番」と指定されたその曲は、今では発表会やコンクールの定番曲となっている。 書かれている説明書きを丁寧に読みながら、先に進むと回廊は開け、部屋の中央にあるガラスのショーケースが茜の目に飛び込んできた。 頭上には大きな照明があって、スポットライトのように一段と明るくなっている。 茜は、ゆっくりとショーケースに近づき、上からのぞき込んだ。 そこには、象牙色をした楽譜が整然と並べられていて、その中に見慣れた音符の配列をみつけた。 「夕暮れのエチュードだわ。」 茜の使っている楽譜と同じ音符の流れ。 音楽家によっては、音楽記号など指定せず、演奏家の判断にまかせるとでも言うような自筆譜がある中、グランチェスターは、細かな指示を楽譜に散りばめている。   その数枚の楽譜の横に、茜は「グランチェスターの恋文」を見つけた。 それは、ノートの半分ほどの大きさで、メモ書きと言ってもいい走り書きの手紙だった。 思ったよりすごく小さい。 茜は、のぞき込むようにショーケースに触れた。 バチン。きゃあ。 その時、ショーケースに触れた茜の手のひらに静電気が飛んできて、思わず悲鳴をあげた。 手を引っ込め、改めてグランチェスターの恋文を見ると、ぼんやりと発光しているように見える。 え?何で? 茜は、自分の目がおかしくなってしまったのかと瞬きをしてみる。 と、その時、ぐらりと足元が崩れ落ちていくような感覚の中、茜はフッと意識を失ってしまった。
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