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エピソード 4
ウェントスが短く何かを叫んだ後、シュルーズベリーの街にジプシーの音楽が流れ出した。
激しく情熱的なギターとアコーディオン、透明感のある澄んだヴァイオリンの音色に、深く豊かな歌声が重なり、漆喰とレンガの建物が取り囲んだ石畳の円形広場に反響し、空へと解き放たれる。
彼らの旋律は、一陣の風となり、その場にいる人々をジプシーの物語で包み込む。
モール(短調)で哀しい旋律は、ジプシーが生きてきた証(あかし)。
熱く情熱的なメロディは、しいたげられ、世界の片隅に追いやられてきたジプシーの哀しみ、慟哭、反抗の叫び。
演奏がはじまるまでは、ジプシーたちに侮蔑の色さえ浮かべていた街行く人たちが、演奏がはじまったとたん、息を飲み、足を止める。
彼らは心をかき乱され、蔑む思いとは裏腹に、その音楽に身を委ねたい、という自分の内なる声に抗えない。
やがて、街の人々は、ジプシーの音楽の「虜」となる。
彼ら、街の人々の地の底から沸き上がってくるような歓声を聞きながら、
「やっぱり、すごいわ。」
茜は、ジプシーという言葉も知らず、あの日、ここへきてはじめて彼らの音楽を聴いた時の衝撃を思い出した。
ジプシーは、放浪の民。
故郷を持たず、人が欲っするものを何ひとつ持たない憐れな敗者の群れだと人々は言う。
そんなジプシーたちの奏でる音に巻き込まれ、はじめは遠巻きに恐ろしそうに見ていた人々が、やがて彼らの音楽にあわせて踊り出すのを何度不思議な気持ちで眺めただろう。
そして、何より。
茜が驚いたのが、彼らジプシーはかなりの美男美女揃いだという事実だった。
漆黒の長い黒髪、それに応じるような夜の色の瞳。
憂いを帯びた彫りの深い顔立ち。
褐色の肌。
明らかに街行く人々と容貌が違っている。
彼らの外見は、彼らの奏でる音楽を、より神秘的なものにするのに役立っているはずだと茜は思う。
「なんだ、アカネ、こんなところにいたの。またどこかの隅っこで泣いてるんじゃないかと心配して探してたんだ。」
後ろから、背中をツンツンとつつかれて茜はわれにかえった。
振り返るとひとりの小さな少年が、すばしっこそうな目をキラキラさせて茜を見上げている。
手には、ふたつの羊革のきんちゃくを持って。
「ごめんね、フィン。つい、音楽に聞き入っちゃったの。」
茜は申し訳なさそうにフィンに謝るとにっこり笑いかけた。
フィンは、7才のジプシーの少年。
この黒髪のジプシーの群れの中で、ひとりだけ鮮やかな金髪を持つのは、彼が拾われっ子だから。
七年前、森の中で小さな籠に入った赤ちゃんが捨てられ、泣いているのをウェントスたちが見つけ、自分たちの仲間にしたのだ。だから正確には、彼はもう八歳になっているのかもしれない。
「そうなのかい?それならいいけど、本当に大丈夫?オイラ、アカネが泣きたくなったら、そばにいてやるから。」
あどけない顔に似合わない大人びた口調でフィンが言う。
「ありがとう、フィン。大丈夫よ。それ、手伝うわ。」
茜が気持ちを切り替えて、フィンの手にある羊革の巾着のひとつを受けとると、
「今日はたぶん、演奏はこれでおしまいだと思う。疲れただろうけど、あと少し頑張って。」
フィンは励ますように力強く言った。
そして、ふと思い出したように、
「そうだ、アカネ。アカネにいいものをあげるよ。」
ポケットからくしゃくしゃになった丸い塊をふたつ取り出した。
「ほら、キャンディだぜ。さっき、じいちゃんみたいな人にもらったんだ。アカネにやるよ。甘い物、食ってないから恋しいんだろ。」
ファンは、小さな手のひらにくしゃくしゃになったキャンディらしき包みを乗せて誇らしげに見せた。
ニッと笑ったフィンの笑顔に、茜は自己嫌悪に襲われる。
情けない私。
ずっとフィンに甘えてばかり。
この世界に来て間もない頃、パパとママに会いたい、とか温かいお風呂に入りたいとか、マックに行きたい、スイーツか欲しいと散々泣きわめいた自分が恥ずかしい。
フィンだって、両親がいないのに。
今日も九歳も年下の男の子に飴をもらってどーすんの、私。
情けない。
自分で自分に突っ込みを入れたくなる。
だけど、正直。
体が糖分を欲している。ジプシーの自然の恵みの食事じゃあ、元気が出ない。
茜は、お礼を言って、遠慮なくキャンディをいただくことにした。
ふたつのキャンディの包みを開いて、ひとつをフィンの口の中に押し込むと、茜は、もうひとつを自分の口の中に放り込んだ。
「あまーい。フィン、ありがとう。すごく美味しい。」
茜が幸せそうに微笑むのを見て、フィンもキャンディを頬張りながら、満足そうに胸をはる。
一ヶ月くらい前に茜がこの世界にやってきてから。
フィンは、いつも茜の味方だった。
家に帰りたくて。
慣れない生活に絶望して。
茜が泣いていると、必ず、フィンがそばにきて、小さな手で涙をぬぐってくれた。
「アカネはひとりじゃないよ。オイラがいるから。オイラがアカネを守ってやるから。」
そんな風にいって慰めてくれた。
元気出さなくちゃ。フィンに心配をかけたくない。
「さあ、ウェントスに負けないように俺たちもひと仕事しようぜ。」
フィンが茜の手をとって歩きだした。
茜たちの仕事は、演奏するジプシーたちへの投げ銭を集めることだ。
そのためにラム革の巾着を持って、人々の間をまわっていく。
わざとらしいくらい丁寧にお辞儀をして催促するとたいていの人たちは、そのラム革の巾着に小銭を投げ入れてくれる。たまには、気前のいい観客が、紙幣を入れてくれることもあるのだ。
そんな時フィンは、得意の「ボウアンドスクレープ」で応じてお礼の言葉を添える。
「あなたに幾千もの神の祝福がありますように」と。
ウェントスたちジプシーの稼ぎは、こうやって街のいたるところで演奏をして、投げ銭をもらうこと、貴族の館に呼ばれて演奏すること、あとはどこかの酒場で2、3曲歌って小銭を恵んでもらうくらい、だ。
決して、豊かな財源ではない。
ジプシーは、その日その日を危うく生きているのだ。
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