エピソード 6

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エピソード 6

男たちが、酒の匂いを撒き散らしながら下卑た話をするのを制するように、ウェントスが雰囲気を変えようと陽気な船乗りの歌を歌いはじめた。 イザベラも曲にあわせ、タンバリンを打ちならす。 するとリード卿は、ウェントスの意図に気づいたのか、苦々しい顔で演奏を止めるように手で合図を送った。 すぐに音楽が止まり、ジプシーも三人の男たちも、リード卿が何を言い出すのか、固唾を飲んで見守る。 「おい、お前。そこで何をやってる。ジプシーとしてここへ来たなら、歌か楽器か、踊りか、どれかをやれ!」 怒りの矛先が隅にいた茜へと向かい、四人の酔っぱらいの視線を受けて、茜はすくみ上がった。 「申し訳ありません、サー。彼女はまだ仲間に加わったばかりで、どれもできないのです。」 ウェントスが素早く謝る。 「では、なぜここへ来た。」 絡み付くようなねっとりした視線に 茜は吐き気をもよおす。 恐怖に体が凍りつく。 すると茜の様子を見ていたイザベラが、嘲笑うかのように、艶やかな笑顔でリード卿にささやいた。 「なにひとつ芸がないのに、彼女はどうしてもリードさまのお屋敷に連れて行って欲しいと懇願したんですのよ。」 ウェントスが息をのみ、リオンもきつい表情でイザベラに視線をうつす。 「貴族の屋敷を見物にきたというのか?他に何か目的があるのか。」 リード卿の言葉に鋭い刃が潜む。 するとリード卿は、酒に酔ってよろける足でゆっくりと立ち上がり、茜に近づき腕をきつく握った。 「いたっ」 たまらず茜が小さく悲鳴をあげる。 「ワシの妾にでもなりにきたか。どれほど美しかろうが、ジプシーの妾など欲しくないわ。身のほどしらずめ。歌も踊りも楽器もできないなら、こっちへきて酌をしろ。」 そしてそのまま茜を引きずり、ソファに投げ飛ばす。 三人の男たちもその様子をニタニタと薄笑いを浮かべて静観している。 司教と呼ばれた男ですら。 「お前、かわいい顔をしているではないか。踊れないなら、ワシが踊らせてやろう。裸でな。」 そう言って茜のブラウスに手をかける。 「きゃー。やめてー。」 「お待ちください。」 茜が叫ぶのと同時にウェントスがたまらず、飛び出してリード卿の足元にひれ伏した。 「サー、どうかお許しを。その子はまだほんの子供でございます。今日も貴族の皆さまに失礼なきよう礼儀を教えるために同行させたのです。」 「ほぉ。それでは、ワシがその礼儀とやらの練習台にさせられた、というわけか?ワシを軽く考えてのことと受け取れるが。」 リード卿は、その目に怒りの炎を燃やしてウェントスを睨み付けた。 「決して、そのようなことはございません。シュルーズベリーの街の者同様、リードさまを尊敬し、お慕いしておりますゆえ。」 「うるさい。ジプシーごときにごまかされるワシではないわ。バカにしおって。」 目を血走らせたリード卿は、マントルピースの上の壁に掛けてあったライフルに手をかけた。 それでも他の三人は止める気配もない。 「先に役立たずの生意気なジプシー女を撃つべきか、そのジプシー女を連れてきたお前を撃つべきか?それともアドニスを先に撃つのがいいか。」 そう言って、ライフルの照準をピタリとウェントスにあわせた。 このままだと狂った貴族に撃たれてしまう。 茜は、勇気をふりしぼって声をあげた。 「私、ピアノなら弾けます。あそこにあるのは、ピアノですよね?あれをお借りできますか?」 茜の言葉に、ホールにいた全員があっけにとられる。 いつも鉄仮面のように無表情なリオンですら、驚いた表情を浮かべた。 「ああ、確かにピアノだが、ジプシーにピアノが弾けるなどと聞いたことはないぞ。嘘は命を縮めるだけだと思え。」 脅すようにリード卿が言うと、 「娘、謝るなら早い方がいい。」 巻き毛の男も茜の嘘を信じて疑わない。 「私がピアノを弾くことができたら、全てを許してくれますか?」 この場を切り抜けなければ。茜は必死だった。 この世界にやってきて、何も言わず受け入れてくれたウェントス。 行くところがないなら一緒に行こうと仲間にしてくれたのだ。 私のせいで殺されるかもしれない。 リーダーのウェントスがいなくなったら仲間のジプシーたちは路頭に迷うに違いない。 「よかろう。お前がピアノを弾いて、この場にいるこの三人が認めたなら、もちろん無事に帰してやる。身に余る報酬と共に、な。」 弾くしかない。 茜は覚悟を決めて、凝った装飾で飾られた小ぶりのグランドピアノの前に座ると深呼吸をした。 鍵盤は同じ。 要領も変わらない。 コンクールと思えばいい。気難しい音大の教授四人。 この世界にやってきて、ずっとピアノを弾いていない。 指が動くかわからないけれど、やるしかない。 弾く曲は迷わず、「バッハの平均律第13番嬰ヘ長調」に決めた。 コンクールのために半年間弾いてきた「課題曲」だ。 素子先生の声が、頭の中にこだまする。 「いい?バッハの時代は、今と違って、音楽は神と王侯貴族たちのためのものだったの。だからこの曲は、荘厳に華やかに神を祝福するかのように弾くこと。プレリュードは、思い切り美しく歌って!フーガは豊かに力強く!」 いつも通りに! 茜は、テンポを確認し、頭の中でカウントをとって、息を吸って弾きはじめた。 演奏が終わると、一瞬、グレートホールに静寂が訪れた。 貴族たちもジプシーも今自分の耳で聴いたピアノの音をかみしめる。 今聴いたのは、酔って見た夢だったのだろうかー? 男たちは、貧しいジプシーがバッハを知っていることにも驚いたが、それよりもその繊細で美しいプレリュードに、ダイナミックで深いフーガにつかの間、酔いしれたのだった。 「素晴らしい!」 司教が、リード卿を差し置いて歓声をあげた。 それをきっかけに貴族たちが、ジプシーの娘に惜しみなく拍手を与える。 「独特の解釈だが、バッハの素晴らしさを体現しておる。見事なフーガだ。ワシのお抱え楽団にしてやってもいいぞ。」 満足げにリード卿が茜に、そしてウェントスに言い放つ。 「よかった。これで、無事帰れるよね?」 茜の心の声に応えるように、ウェントスも微かにうなづきながら優しく茜に微笑みかける。 冷たく氷るリオンの瞳にも、煙るような深い色が宿る。 その夜は、アンコールのバッハと、かつて茜が発表会で弾いて暗譜していたヘンデル、そして得意の湯山昭に、即興でウェントスのギターとリオンのヴァイオリンが加わり、優雅で危険な宴の幕が閉じたのだった。 もちろん、リード卿からは、何度もお抱え楽団に、との誘いと充分すぎるほどの報酬を受け取り、ジプシーたちは帰途についた。 その夜もウェントスは、茜に何も聞こうとしなかった。 記憶が戻ったのか、どこでピアノを弾いていたのか、聞きたいことはいくらでもあるだろうに。 言いたくなったら、言えばいい。 漆黒の空に幾千もちりばめられた星々の下、馬上に寄り添って乗る茜にはウェントスの言葉が聞こえたような気がした。 星明かりを頼りにリード卿の屋敷から、ジプシーたちが野営する川沿いの野原まで、北極星を背にまっすぐ南へ向かう。 低い南の空に煌めくさそり座の心臓、アンタレスの紅い星が道しるべ。 そのアンタレスのようにイザベラの瞳が、怪しく暗い炎を帯びているのを茜は気づいていただろうか。
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