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エピソード 7
「ねぇ、アカネ。もう起きた?」
テントの外からフィンに呼ばれて、茜は目を覚ました。
隣にいるイザベラは、美しい肢体を投げ出してまだ眠っている。
「ちょっとまって、フィン」
茜は、小さな声で応え、慌てて着替えをすませてテントの外に出た。
睡眠不足の頭に、朝の光が眩しい。
「おはよう、アカネ。昨日大活躍したんだってね。ウェントスから聞いたよ。ピアノを弾いて、貴族の奴らを驚かせた、って。」
フィンが満面の笑顔で茜に微笑みかけ、テントの近くにあった平らな岩に腰かけた。そして、トントンと自分の隣を手で叩く。
ここへ座って、ということらしい。
「もうウェントスは起きてるの?」
明日の朝はゆっくり休もう、そう言ったのはウェントスなのに。
茜はフィンの隣に座り、ヤギのミルクが入ったコップを受けとった。
フィンは自分の腰にぶら下げていた袋を膝の上に置く。たぶん、リンゴと固いパンが入っているはずだ。
ここへきてから、茜はフィンと朝食をとるのが日課になっている。
ジプシーたちは、夜はかがり火を焚いて円座になり、皆で夕食をともにするのだが、それ以外の食事はそれぞれが、食糧の入った幌馬車から勝手に持っていくのだ。
「ううん。ウェントスはまだ寝てるよ。その話を聞いたのは昨日なんだ。オイラ、アカネが心配で、テントの中で寝ないで待っていたから、帰ってきたウェントスが教えてくれたんだよ。」
フィンは、どうだと言わんばかりに胸を張った。
「あんなに遅くまで起きてたの?
よくこんなに早く起きることができたわね。眠くない?」
「アカネと早く話をしたかったんだ。本当はもっと早く起きてたんだけど、太陽があそこの木のところに昇るまで待ってたんだ。」
時計のないジプシーは、太陽の高さで行動する。
「アカネも眠いんだから寝させてあげなくちゃ、ってわかってたんだけど、我慢できなくて。」
フィンは申し訳なさそうに上目遣いになる。
かわいいなぁ。弟って、こんな感じなんだろうか。
一人っ子の茜はフィンに甘えられることが何より嬉しい。拾われっ子のフィンも茜のことを姉のように思っているのかもしれない。
「大丈夫。お腹すいたし、フィンに会いたかったし。」
ジプシーの朝はたいてい遅い。次の街への移動や公演がなければ、気の向くまま、時間を気にすることもなく、いつまで寝ていても構わない。
今日は移動もないし、公演にも出かけないとウェントスは言っていた。
洗濯をするくらいだ。
「よかった!あとね、アカネ。今日は、おばばさまから、薬草を摘んでくるように言われてるから、アカネも一緒にきて。」
「薬草って、なあに?」
ハーブとかそういう系?
知らないの?とフィンが目を丸くする。
「茜は病気になったり、ケガをしたことはないの?」
「そりゃあ、あるわよ。当たり前でしょ。」
茜は、なに言ってんのと笑う。
「薬草は薬なんだよ。おばばさまが煎じてくれる。おばばさまの薬は、病気にもケガにもすごく効くんだ。」
おばばさまの作る薬って、風邪の時にママが作ってくれるハチミツの入った生姜湯みたいなものだろうか。
「昨日からリリーが熱が高くて、薬を飲ませなきゃいけないっておばばさまとライラが話してた。」
リリーは、メンバーの中で最年少、産まれて数ヶ月の赤ちゃんだ。
おばばさまの孫のルプスと嫁のライラの娘であり、おばばさまにとってはひ孫にあたる。
そしてリリーは、茜が生まれて初めて抱っこしたベイビーでもあるのだ。
リリー、熱が高いの?大丈夫だろうか。
「おばばさまって、物知りだし、色んなことができるのね。占いもできるんでしょ?」
おばばさまの占いには、わざわざ街から訪れる人もいるらしい。
「そうなんだ。おばばさまの占いは、すごく当たるってみんなが言ってる。全てを見透す力を持ってるんだって。」
フィンが自慢げに胸を張る。
「それに、おばばさまは、薬を作ったり、占いをするだけじゃないんだ。魔術も使う。」
ぷっ。
フィンの大まじめな顔に、茜は吹き出した。
「魔術?」
魔術って、魔法のこと?おばばさまは、魔法使いなの?
そのおばばさまは、ウェントスの母親で、白髪で小柄なおばあちゃんだ。
「やだなぁ。魔法じゃなくて、魔術。ピアノは弾けるって言うのに、アカネはなんにも知らないんだね。」
フィンは呆れたように笑う。茜には、なぜ自分が笑われるのか、理解できない。
魔術と魔法は一緒じゃないの?
素直に疑問をぶつけてみる。
「魔法は、人々が考えた空想の力。あったらいいなぁと欲する憧れなんだ。魔術は、人の持って生まれた運命を後押しする力。人間の感情や想いを増幅させ、不可能を可能にする。」
フィンは、七歳の子供とは思えない大人びたセリフを口にする。
ジプシーの世界は、自然との調和。茜の知らない価値観を持っているんだとしみじみ感じる。
「なんだか難しいけど、魔法は架空のものだけど、魔術はこの世に存在している、っていうことなのね。」
茜は、フィンの青い瞳をのぞきこみ、確認する。
「うん。そうなんだ。」
フィンは満足げに力強くうなづく。
「やっぱりアカネは賢いなぁ。オイラの話を一発で理解しちまう。」
ググッー。
その時突然、フィンの腹の虫が豪快に鳴った。ふたりは顔を見合わせて爆笑する。
茜とフィンに真面目な話は似合わない、フィンのお腹がそう言ってるようだ。
ふたりは、何よりも先に朝食にありつくことにした。
おばばさまからフィンが摘んでくるように言われた薬草は全部で九つ。
マッグウィルト、アトルラーゼ、スチューン、ウァイブラード、マイズ、スティゼ、ウェルグル、フィレ、フイヌル。
あとは古い石鹸とリンゴ、水と灰、卵が必要らしい。
これらにおばばさまが、呪文をかけて薬をつくるんだ。
フィンが言う。
「はい、これがマッグウィルト。」
フィンは足元に生えている苔色の草を丁寧に引き抜き、手のひらに乗せて茜に見せる。
マッグウィルトって、子供の頃、山梨に住むおばあちゃんが作ってくれたヨモギ餅で使うヨモギみたい。
フィンの手からつまみ上げて匂いを嗅いでみると、やっぱりヨモギのような懐かしい香りがする。
「こっちは、ウァイブラートっていう薬草だよ。擦り傷ができたら、これを揉んですりこむとすぐ治るんだ。」
フィンは、ひとつひとつ丁寧に教えてくれる。
ふたりは、ジプシーたちが野営する川沿いの野原から森の方へ歩きながら、薬草を摘んで行く。
夢中で摘んでいるとつい遠くまで来てしまったのか、テントも馬車も見えなくなってしまった。
すぐ目の前に森の入り口が、ぱっくりと口を開けている。
「フィン、テントが見えなくなっちゃったけど、大丈夫?帰れる?」
茜が心配になって尋ねるとフィンは、
「大丈夫さ。去年の夏もオイラたち、おんなじ場所にテントを張って、ウェントスと一緒にここで薬草を摘んだから、覚えてるんだ。」
と森の奥を指差した。
「最後に、あの森の奥にある湖のたもとにウェルグルって小さめの木があるから、ひと枝かふた枝折ったらおしまい。さぁ、行こうぜ。」
そう言って歩きかけたフィンは、森の入り口にあるブラックベリーのブッシュに気がついて足を止めた。
「アカネ、先に言ってて。森の奥に澄んだ湖があるんだ。喉がかわいただろ。そこで喉を潤して待ってておくれよ。オイラ、ブラックベリーを摘んでから行くから。」
フィンがウィンクを飛ばす。
喉がかわいたわ。
茜は、フィンのいう通りに先に湖を目指すことにした。
森に入ると、木漏れ日が茜の足元にキラキラと落ちてくる。
それほど深くなくてもやはり森は森らしい。
全ての太陽の光が注ぐヒースの平原と違い、葉と葉がさざめき、その隙間を通り抜けた輝く光の糸が森の中に幾本も立ち並ぶ。
その中を茜は奥へと進んだ。
しばらく行くと、森の静寂の中に、パシャンと水の跳ねる音がして、茜は足を止めた。
湖は近そう。さっきの水の音は、鳥でも来ているのだろうか。
鳥たちを驚かせないように、今度はそっと忍び足で進む。
やがて木々の間から静かにたたずむ湖が見えてきた。
それほど大きくない湖には、ブナの木々が傘のように枝を広げている。
その湖のそばに立つ一本の大木。その大木に一頭の葦毛の馬が繋がれているのが、茜の目に入った。
誰かいるの?
周りを見渡すが、湖にも木立にも人影はない。
まさか、溺れて?
その時ー。
「君か。こんなところで何をやってる?」
すぐ近くで不機嫌な声がした。
振り向くと、立っていたのはリオンだった。
水浴びをしていたのか、濡れた髪を後ろに撫でつけ、むき出しの短剣を手にしている。
「リオン。」
茜は驚いて、口にできたのはその一言だけだった。
「君も水浴びをするの?だったら、どうぞ。俺は終わったから。でも気をつけた方がいい。あの湖は、奥へ行くとかなり深いんだ。」
リオンは茜を一瞥すると、短剣を腰のさやに戻した。
短剣なんか持って、水浴び?
こんな意地悪な男のどこがいいんだろう。いや、意外とツンデレなの?
どっちにしろ、イザベラの好みって、変わってる。
私はフィンみたいに優しい男子が好きだけどな。
リオンは、茜の答えを待つ風もなく、すばやく大木に繋いでいた葦毛の馬の手綱をとってあぶみに足をかけた。
その瞬間。
茜はリオンの後ろ姿に無数の恐ろしい傷跡を見て、息を飲んだ。
恐怖に、指先が冷たくなってくる。
リオンの髪の毛からポタポタと、したたり落ちる雫がシャツを濡らして背中に張りつき、リオンの右の肩から左の脇腹にかけて走る大きな傷跡が透けて見える。
皮膚がひきつれて、ところどころが盛り上がり、痛々しい。
それほど新しくはない傷跡なのか、大きな傷は茶色く変色し、その傷跡以外にも無数の残酷な傷が背中を走っている。
「リオン、その傷。」
つい、口をついて出た茜の言葉に、リオンがぴくんと反応し、後ろを振り向かず、圧し殺した声で告げる。
「詮索と同情は嫌いだと言っておこう。」
そして、リオンはそのまま茜を振り返ることなく、行ってしまった。
そう言えば、リオンは茜と同じように途中からオイラたちの仲間になったんだ。フィンがそう言っていた。
あの傷跡は。
リオン、あなたはどんな過去を抱えているの?
いつも冷たい横顔に隠された恐ろしい過去を想像して茜はぶるっと体を震わせた。
茜は、フィンがやってきて声をかけるまでその場に立ち尽くしていたのだった。
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