エピソード 8

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エピソード 8

リリーがテントの中でぐったりと横たわり、ゼイゼイと荒い息をしている。 小さな胸が上下に揺れて、見ている茜も息をするのが苦しくなってくる気がする。 おばばさまが、呪文をかけて作った軟膏をリリーの体に塗っても、もうずっと熱は下がってはいない。 おばばさまが繰り返し、何度も呪文を唱える。 どこが苦しいのか、どこが痛いのか、まだ話せない赤ちゃんのリリーは、今は泣く気力もなく、真っ赤な顔で息をするだけ。 隣にいるリリーの母親ライラは、20歳。初めての娘の病気にオロオロしている。 イザベラ以外の女たちもテントの中でリリーの様子を見守っているだけだ。 その様子を見ていた茜は、たまらず 「どうしてリリーを医者に連れていかないの?ウェントスがいないんなら、誰か他の人が連れてけば、いいじゃない。」 テントにいた女たちに質問とも抗議とも言えない調子で口にした。 するとその言葉にジプシーの女たちが茜に悲しげな視線を投げる。 「アカネ。街の医者はジプシーなんぞ、誰も診てはくれないんだよ。」 おばばさまが暗い瞳でボソリと言う。 えっ? 「わしらジプシーは、人であって人ではない。家畜と同じ扱いさ。」 それを聞いて、ライラがたまらず、リリーの体にとりすがってワッと泣き出した。 「お金を払っても診てくれないってこと?」 茜が確認するように尋ねる。 そんなことがあるんだろうか? 医者が診察しないなんて。 「いくらお金を払うと言ってもわしらの身分じゃ相手にされない。それどころか、無理やり診察を頼んだジプシーが生意気だと医者に殺される事件が少し前に起こった。」 そんな。。。 身分って何?病気になっても医者は診てくれない、そんな常識、私は知らない。 茜はなぜかふつふつと怒りがわいてきた。 じゃあ、このままリリーが苦しむのを見ているだけなの? 不運なことにウェントスたちは不在。リード卿の紹介で、明後日、貴族の結婚式の宴に音楽を演奏するようにと呼ばれ、その打ち合わせに出掛けている。 茜は医者を呼びに行かなければ、なんとしても、その思いでテントを飛び出した。 リオンが茜を見かけたのは、ウェントスと別れ、シュルーズベリーの街の目抜通りから、かなり外れた裏通りを馬で通りかかった時だった。 お世辞にも綺麗とは言えない古ぼけた診療所の玄関の前で、茜と看護師らしき年配の女性が激しく言い争っている。 いつもぼんやりしていて何を考えているのかわからないヤツ。 記憶を失っているという正体のつかめない怪しい女。 茜のことをそのくらいにしか思っていなかったリオンだが、貴族の館で彼女のピアノを聴いてから、少しだけ、茜に焦点があった気がする。 その茜が、見たことがないくらい激しく感情を爆発させて、何かを抗議している。 こんなところで、いったい何をやってるんだ。 茜の激しい一面を見て、リオンは驚いて馬を止め、その様子を見つめた。 「だから、代金は払うって言ってるでしょ。医者が患者を診ないでどうすんのよっ。」 茜は、心底うんざりしたように言い放った。 それに対して、相手の女も負けずに 「だからジプシーみたいな卑しい身分のやつらは診ないだけだ、って、言ってるだろ。うちのドクターに診て欲しければ、身分がいるのさ。ジプシーを診るような医者を街の人々は信用しない。」 居丈高に叫ぶ。 「はぁ?小さな赤ちゃんまで、診てもらうには身分がいるの?身分、身分って言うけど、それ、いつ誰が決めたのよ。ご先祖の立ち位置を今の世の中まで持ち越されて、勝手に偉いだの、偉くないだの言われてもそんなの知らないって!」 茜はやけになって大声で叫んだ。 身分だなんて「江戸時代かっ」と突っ込みたくなる。 この診療所で五軒目。表通りの病院では、門衛に追い払われた。 このままこの看護師らしき女と話をしていても埒があかない。直接、医者に頼むしかないのだろうか。 茜は、玄関の奥にいるであろう医者に向かって大声で怒鳴った。 「助けるべき人を、生まれた家柄や身分で決めないで。身分にこだわって、大切なことが見えなくなったら愚か者よ。ドクター、あなたに医者という権力があるなら、誰に何て言われてもかまわず、その力を弱者のために使ってよ。それが権力があるってことでしょ。」 リオンは今聞いた茜の言葉に、耳を疑った。 この国は、王を頂点とする身分制度でできている。 人は身分のために争い、身分を守るために命がけで戦うと言うのに。 身分制度がすべて、と言っても過言ではないこのイングランドの地に、このような発言を堂々とする人間がいるとは。 この少女はいったいー。 その時。 ピピッー! 「おい、ジプシー女、何をやってる。何を騒いでいるんだ!」 鋭い笛と蹄の音が聞こえ、通りの向こうに馬に乗った治安官ふたりが現れた。 こちらを見ながらものすごいスピードで馬を駈けてくる。この時代の治安官は、現代の警察官にあたる。 「まずい!」 治安官に連れて行かれたら、何をされるかわからない。 ましてや今の茜の発言は、万死に値するものだ。 リオンは、すばやく馬の脇腹をひとけりし、茜に向かって馬を疾走させた。 「アカネ、乗れ!」 リオンは、馬上から体を地面に落とすようにして腕をのばし、茜の脇を抱えて一気に持ち上げた。 突然現れたリオンに驚きながらも茜は、こちらへ向かってくる男ふたりを見て、事情はすぐに飲み込めた。 逃げなきゃ。 そう思った瞬間、茜はリオンに抱え上げられ馬上の人となった。 そして、そのままリオンは、細い路地に入り、一気に馬を駆ける。 街行く人をすんでのところでかわし、追っ手をまく。 右腕で茜を支え、左腕で馬の手綱を操る。 少年のようにほっそりとしていると思っていたリオンの腕の力強さに茜は驚いた。 リオンの腕と胸に抱き締められる格好になって、茜は急に息苦しくなる。ウェントスと乗った時にはそんなことを思わなかったのに。 風になびくリオンの髪と茜の髪がもつれ合い、流れていく。 その様子をぼんやり見ていた茜は、リオンの言葉で我にかえった。 「もう大丈夫だ。追ってはこないだろう。」 街を抜け、ヒースの平原に出るとリオンは、馬のスピードを緩めた。 「リリーのために医者を呼びに行ったのか。街まで歩くと遠かっただろう。」 リオンが今までにないくらい穏やかな口調で茜に尋ねる。 「リリーの熱が高くて下がらないから、一生懸命頼んだら変人の医者のひとりくらい診てくれるんじゃないかって思ってたの。。。私、考えが甘かった。」 そう。甘すぎるわたし。 女子高校生が甘えたらなんとかなる、って思ってた。 ちょっと上目遣いで先生やパパにお願いするとたいてい「仕方ないなぁ」そんな風にひとこと言って茜の願いを叶えてくれる。 今日もなんとなく、年取ったおじいちゃんの医者が茜の願いを叶えてくれるかも、そんな淡い期待をしていたのだ。 笑っちゃう。バカすぎて。考えが甘すぎて。自分が情けなくて涙が出てくる。 捕まったら大変なことになるところだった。 リオンにも迷惑をかけちゃった。 「ごめんね、リオン。」 茜がリオンに聞こえるように、肩越しに振り返って謝る。 リオンは茜の横顔に涙が光るのを見た。 「謝る必要はない。君は立派だった。誰よりも。」 そう言ってリオンは、光が透けるように眩しそうな目をした。 そうー。君は立派だ。 茜の放った言葉がリオンの胸に深く突き刺さる。 身分にこだわって、大切なものが見えなくなったら愚か者よ。 医者に叫んだ茜の言葉は、そのまま自分に投げられたナイフのようだ。 「失った身分を取り返す。父上と母上のためにも。そのためには手段は選ばない。」 そう誓ったあの日からすべてを捨てて復讐のため、生きのびてきた。 それは間違いなのか? いや、そうではない。あるべき宿命の居場所を取り戻す。 それが、正義。 リオンは迷いを振り払うように馬のわき腹に蹴りを入れ、スピードをまた上げた。 その日。 リオンとジプシーのテントに戻った茜が聞いた最初の言葉は、「リリーが亡くなった。」だった。 茜がこの世界にやってきて学んだことは。 自分の当たり前は、当たり前ではない、と言うこと。 人はこんなに簡単に亡くなってしまうことがあるんだ、と言うことだった。
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