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 彼女は鏡しか見ぬ。鏡がそのまま現実であると思い込んでいる。ともすると鏡の方が現実の本体である。とにかく、彼女は鏡しか見ぬ。  彼女はある男を愛した。男は豪傑であり、凄まじい勇姿をその影に湛えている。彼女には影の方がよく見える。彼女がこの男を愛するのは、必然であった。  彼女は男を抱き締めようとする。男の方も両手を広げて構えている。しかし、どうしてか二人の距離は一向に縮まらず、空くばかりである。彼女にも彼にも、そのわけは一向理解できぬ。彼女は分からぬことがあると、鏡を覗く。常日頃それしか見ぬのだから改まることもないが、そういう時にはいつもより目一杯見る。色白の美しい肌は、ちゃんと血の通っていることを存分に示しながら、照り輝いている。いつも通りだ。何も問題は無い。奥では甲冑を着込んだ威風堂々の彼が、不変の姿勢で待っている。改めて彼の位置をきちんと捕捉する。彼の方が、今度は待ちきれずに突進してくる。彼女は嬉しくなって、我を忘れて駆け出した。少しずつ、少しずつ近づいている。彼女は興奮して足を早める。男はそこで足を止めた。もうじきだ。彼女は涙まで流す。いよいよ、彼のたくましい胸に、飛び込む念願が叶うところである。——が、彼は扉に振り戻った。涙は凍る。立ち止まって、鏡を睨め付ける。これは何かの間違いである。彼女と男とは、これから愛を誓おうという仲である。彼らの熱は今この時分に最高潮に達して、抱擁のうちにたぎって、駆け巡る血液が逆流を起こすはずである。  彼女は鏡を外して振り返る。そこに佇んでいるみすぼらしい青年は、恐らく髪を何日も洗っておらず、首筋や腕が骨張って、彼女を見て薄ら笑みを浮かべている。カラカラに乾いた唇を、妙に忙しなくモゾモゾと動かしている。彼女はため息をついて、鏡を覗く。鏡には当然、そんな青年の姿は無いのである。  現実とは影であり、その影こそが現実である。はたまた、それすら影の影である。そのまま眼に映るものを見てみよ。そこに何一つとして真実があるだろうか。疑うことを知らぬのなら、それで良い。ただ、彼女はこの世に生まれ落ちた時から、瞬時に疑った。  鏡に映らぬものは、無いのと同じことである。故、彼女は唯、鏡を見つめるのである。  男は逃げ出した。相変わらず映っているのは、確かに触れることのできる若い娘と、目まぐるしい血流に掻き立てられた内側と、鍛え上げた肉を体格とする、また新たな男である。
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