おかあさんのうた

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 ある晴れた休日のことだ。春の陽光は穏やかで、時折吹く風も心地良く、絶好の散歩日和であったものだから、その男は思いつくままに家の外に出た。  特に目的もない外出であるため、どこを目指すわけでもなく、ぶらぶらと辺りを歩く。雲のない晴天の青は、色素の薄い男の目には少しだけ眩しく感じられた。  昼前の空気は僅かな微睡みをまだ抱いている気がして、男の口からひとつ欠伸が零れ落ちる。  と、男の耳に、不意に誰かの歌声が届いた。静かに紡がれていくそれを聞いた男が、思わず声の方に目を向けてみると、小さな公園のベンチに座っている一人の女性の背中が見えた。どうやら彼女が、歌声の主であるらしい。  彼女は男に気づいた様子もなく、のんびりと歌を歌い続けている。男はどうにもその歌が気になって仕方がなく、彼女の方へと足を向けることにした。  公園の敷地に入り、正面から彼女へと近づいていくと、流石に彼女も気づいたようで、自分の元へ真っ直ぐに向かってくる男に、淡い色の髪をさらりと揺らして首を傾げた。男はそんな彼女に向かってこんにちはと挨拶をしてから、素直に、貴女の歌っている歌が気になって声を掛けたのだと伝えた。すると、彼女は少しだけ気恥ずかしそうに笑ってから、男にベンチの隣を勧めてきた。  それに従って腰を下ろした男は、改めて彼女に向き直ってから、先程の歌について尋ねた。 「あの歌は、一体何の歌なのですか?」  すると彼女は、どこか嬉しそうに笑ってから、あの歌は母の歌なんです、と言った。
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