青い空と白い煙

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

青い空と白い煙

 高校の屋上で吸う煙草は格別だ。素晴らしい景色を見渡せるし、何よりも背徳感が旨さを引き立てる。遺憾なことではあるが、この高尚な趣味は、校則だとか、そもそも法律に反するものだ。だから、屋上に先客がいたときは背中を丸めて退散することになる。わが人生において、このときほど惨めな瞬間はないのだが、それでもこの趣味をやめようと思ったことはない。俺がいかに屋上での喫煙の虜になっているか分かろうというものだ。  その日も屋上に煙草を吸いにきた。始業前の朝早い時間を狙ったから、今日は吸えるだろうという確信があった。エレベーターに六階まで届けてもらった後は、階段で屋上まで登ることになっている。浮き浮きとした気分で、俺は野うさぎのように階段を駆けていった。  屋上の扉を開くと、輝かしい空が広がっていた。そこから一歩踏み出すと、四月の中頃の心地よい陽気に優しく包まれる。清々しい朝というやつだ。テレビの天気予報でも、「今朝は絶好の喫煙日和です」だとか言っていたに違いない。    そういうわけで、このとき俺は最高の気分だったし、煙草を吸って帰る以外の選択肢は持ち合わせていなかった。待ち切れず、制服のポケットから〈ナチュラル・アメリカン・スピリット〉と書かれた黄色い箱とジッポーを取り出した。そして、お気に入りの場所──この入り口から見て右端、救助袋が置かれているあたりだ──に歩みを進めた。  しかし、このとき俺はひどく落胆することになった。思わず立ち止まってしまったほどだ。俺はその原因を睨みつけながら、早足で近づいて行った。 「あの、すいません」俺はつとめて冷静に言った。  その原因は、一人の少女だった。白く塗装されたステンレスの柵を乗り越えて、救助袋の横に静かに座っていた。俺の声を聞いて、少女は気だるげにこちらに振り返った。 「何ですか」  冷たい声で、けっして柔和な表情とは言えなかったが、その少女の横顔は大層美しかった。年上のようにも見えるし、あるいは年下のようにも見えた。掴みどころのない雰囲気ではあったが、まるでこれから式典にでも出席するかのように制服をきっちり着ており、厳格な印象を抱かせた。 「ええっと、柵越えたら危ないですよ」 「ご心配なく。これでいいの」 「はぁ」  これだけのやり取りではあったが、一つ分かったことがある。つまり、この女はどこかに行ってくれそうにないな、ということだ。まるで自分の部屋のように振舞っていやがるが、俺にだってここを譲れない理由がある。ここは強気に出ることにした。 「俺が今からすることは、見なかったことにしてください。というか、こっちに振り返らずに空でも眺めててほしいんです」  少女が一寸戸惑った。「はあ。分かったけれど」  これをただの諦めだという人間もいるかもしれないが、俺に言わせれば「なにが悪い?」だ。一秒でも早く、この場所で煙草を吸いたいのだ。この気持ち、煙草を嗜む紳士諸君には分かってもらえるだろうか。  大きなため息をつきながら、俺は煙草に火をつけた。四回ほど肺に煙をゆっくり吸い込むと、ようやく心に静謐が訪れた。このころには目の前の少女のことも忘れ、煙草を大いに楽しめていた。 「あの、あなた、なにをしているの」少女がほとんど唐突に言った。  俺はひときわ強く煙を吸い込んだ。喉への刺激──いわゆるキック感──がたまらない。そして持参していた炭酸水を口に含んだ。煙草と炭酸飲料の相性の良さをご存知だろうか? いがいがしてきた喉を、炭酸の刺激が洗い流してくれるのだ。 「ふぅー。たまんねぇな、これ」  少女が立ち上がって言った。「ねえ、ちょっと!」 「なんですか。今いいところなんです」 「いったいなにを始めるのかと思えば、まさか煙草だなんて」  少女は美しい目を見開いて、こちらをじっと見つめていた。横顔のみならず、正面から見た顔も抜群だった。 「全裸で踊ってたほうがよかったですか? それはそれで楽しそうですけど」俺はおどけて言ってみせた。 「やめて」少女がぴしゃりと言った。「死ぬ前にそんなもの見たくないですもの」 「死ぬ前? 自殺でもするんですか、ここから飛び降りて」俺ははるか下の地面を指さした。  少女はしばらく押し黙っていた。これから本当に死ぬのだとしても、それを俺なんかに言うつもりはなかったのだろう。思わず口を滑らしてしまった、という様子だ。 「ええ、その通りよ」少女が呟いた。 「それは、それは!」俺は思わず言った。「どうしてここを選んだんです?」  少女は肩をすくめた。「ここの眺めが好きなの。最後に見ておくのも悪くないと思って」 「なるほど。素晴らしい理由ですね」俺が言った。「俺もこの景色は好きなんです──まあ、正確に言えば、この景色を眺めながら吸う煙草が好きなんですがね」 「そんなに変わるものなの?」 「はい。少なくとも、くそ狭い喫煙室で吸うよりはずっと美味しく感じます」 「あの見せ物と化しているやつね」 「そうですね。その通りです」俺は苦笑した。「外からの視線を煙で遮りたいもんです」  少女が、俺の右手に視線を走らせた。指に挟んだ煙草をたっぷり観察しているようだ。まったく無意識であったのだが、それを見たとたんに俺は呟いていた。「死ぬ前に吸ってみませんか、煙草」と。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!